2013年12月31日

大晦日

2013年も今日一日だけとなりました。

今年も一年、新・役員サロンをお読みいただき誠にありがとうございました。

思い起こせば、会社の管理者の皆さんに、トップの考えや価値観を理解してもらおうと書き始めたブログでした。
2006年7月11日のことでした。

大きな転機は一年経った頃でした。
2007年8月13日に、瀬戸市倫理法人会が発足し会員として参加しました。
そして朝早く起きるようになり、ブログの更新を早朝行なうようになりました。

明らかに内容が変わりました。

深夜の更新は反省が多かった。
しかし早朝の更新は、「今日も一日頑張ろう」という気持ちで書いており、期待していることや決意のような内容に変わった。
これが一番の転機です。

途中、事情で半年ほど休止しましたが、再開の声に答え、「新・役員サロン」として続けてきました。

2013年の暮れにおいて、一つの締めとさせていただきます。

長い間読んでいただきありがとうございました。

また何らかの形で書こうと思っています。
そのときはよろしくお願いします。

伊藤保徳 拝

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2013年12月24日

NHK批判

NHKの新会長が決まった。
以前からNHKの偏った報道姿勢にいろいろなかたちで批判が寄せられている。
そういうことから会長人事も注目されていた。

タイムリーなのか、それとも偶然なのか、雑誌『正論』でNHK批判の特集が組まれている。
そしてそのことが、産経新聞12月23日の「産経抄」でもとりあげていた。

内容は先の大戦についての呼称である。
「大東亜戦争か太平洋戦争か」というものである。

桶谷秀昭氏がかってNHKのラジオ番組において、「大東亜戦争」と話したところ、担当プロデューサーから「太平洋戦争に変えてくれ」、という話があったそうだ。
押し問答の末、断わったところ、放送では「大東亜」の三文字が消されていたとのこと。

われわれは学校で「太平洋戦争」と教えられてきたが、そもそも、「大東亜戦争」とは開戦直後、、日本政府が閣議で決めた公式名称なのである。
大東亜共栄圏の樹立を目指すという日本人の歴史観や、戦争の大義が込められた名称である。

しかしながら、戦後、戦勝国により「日本人の歴史観を抹消するために」太平洋戦争と強制したのである。

NHKが片方の歴史観にくみするのは問題である。
これがNHKへの批判理由の一つになっている。

私が先頃知ったのは、島倉千代子さんが自身のヒット曲『東京だよおっ母さん』がNHKの紅白歌合戦で一度も歌わせてもらえなかったということ。
その理由が、2番の歌詞にあるようだ。

「やさしかった兄さんが 田舎の話を聞きたいと
桜の下で さぞかし待ったろ おっ母さん
あれが あれが 九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも 」

この中で「桜の下」と「九段坂」が靖国神社を思わせるもので、国民の目がそこに向かうことを避けたというのが歌わせなかった理由のようだ。

こんなことは明らかに偏見である。

NHKは民間放送ではなく、その責任も大きい。
多くの批判に耳を傾け、公平中立な立場での報道を望みたい。
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2013年12月22日

50代で学べ

産経新聞に「話の肖像画」という欄があり、今、作家の童門冬二さんが取り上げられている。

その第一回目のタイトルが『朽ち果てないために50代で学べ』であった。
なかなか含蓄のある言葉だとおもった。

童門冬二さんは、先月末に話しを聞いたばかりである。
その時の講演テーマは「軍師官兵衛」だった。
30人ほどのサロン的な講演会だったが、86歳とは思えない頭の切れと淡々とした語り口には驚いた。

90分間立ったままでの講演だった。

その童門氏の言葉であり説得力もある。

近著に『50歳からの勉強方』があるそうだがまだ読んではいない。
そこでは、若い頃との勉強方とはちょっと違うと説いているようだ。

まずは死ぬまで学び続けるという姿勢が必要だということ。
学びの姿勢をなくしたとき、人は本当の意味で老いるという。

そこで述べている。
《ただ、若いころのように新たなことに挑戦したり幅を広げたりするのはやめたほうがいい。自分の中にある鉱脈を掘ればいいのです。

誰でも50歳までの人生には蓄積が、深さがあるでしょう。
50代は仕込んだものを発酵させ、結実させる最適の時期なんですよ。》

自分の鉱脈とは、「経験そのもの」なんでしょう。

会社に何十年と勤務したこと、それこそが「鉱脈」といっているのです。

その鉱脈を更に掘り進めるという事がどういうことか?
いろいろなことが考えられるだろう。

ハッキリしている事は「今までの経験を活かす」ということではなかろうか。


posted by 伊藤保徳 at 08:44| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月21日

報道の正確性

以前からマスコミの公平性に疑問符をつけてきた。
特に新聞についてである。

中日新聞、日本経済新聞を自宅購読していることはさほど感じなかったが、産経新聞を購読するようになり、明らかに偏った報道のあることが分った。

考え方の偏りを極力なくすということで「公平性」という言葉を使っていたが、それはどうも適語ではないようだ。
「公平性」というより、「正確性」のほうが求められると感じるようになった。

つまり、知らせようとする情報の正確性をどのように担保するかである。
その一つの方法として、「賛否両論」を紹介するのであろう。

こんな風に考え、新聞記事を読んでいるが、「正確性」を担保する他の方法のあることを知った。

産経新聞(大阪版)の12月18日号に、「産経新聞報道検証委員会」の様子が、2ページに亘って掲載された。
中日とか日経でも実施されているかもしれないが、記事として見た記憶がない。

委員会では識者4面、社内委員2名とで、「アベノミクスなど経済政策をめぐる報道」と「参議院議員選挙後の政局と道筋を失った橋本維新をめぐる報道」について議論された。

記事では、「事の本質」と「報道のスタンス」などについての議論の様子が紹介されていたが、「識者の意見」がとても参考になった。

一例だが、アベノミクス報道についての田久保他忠衛氏(外交評論家)の発言。
《アベノミクスについては総じて高評価をしつつも、プラス面だけでなく、マイナス面もきちんと捉えているのがいいと思いました。

例えば、明と暗とか、歓迎と警戒とか、副作用とか、必ず対立意見やマイノリティーの意見も取り上げており、多角的な取材をしていると感じました。》(抜粋)

こうしたことを活動を開示し、報道の正確性を高めようとしていることに好感を持つ。
マスコミのあるべき姿だと思う。

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2013年12月16日

平和主義って?

最近のマスコミの論調は、「反政府」的である。

原発問題、特別秘密法問題など、多くのマスコミは政府意向に対する「反対大合唱」である。

反対は反対で認める事は大切だが、マスコミの報道により、そのことだけを信じてエスカレートする人もでてきており、これは問題である。
マスコミは、自身としての「思想」を出すのではなく、事実もとづく公平な報道が望まれる。

原発や秘密法など、「国民のほとんどが反対」という報道だが、本当にそうなのか疑問が残る。
むしろマスコミが必要以上に騒いでいるという感すらする。

それは、賛成派の意見や、そもそもそのことの根本の紹介が殆んどないからである。
仮に賛成が少数としても、尊重してしかるべきである。

その「そもそも」というのに「平和主義」というものがある。
「平和、平和」と叫んでいれば正義だと思っている人もいる。
これから議論されるであろう、集団的自衛権の行使とか、憲法の改正などで「平和主義」という言葉が必ずでてくるだろう。

これを考える上で参考になる意見が新聞にあった。
産経新聞11月26日号、「世界のかたち 日本のかたち」欄で、大阪大、坂元一哉教授が意見を述べていた。
『平和主義、見直すべき時』というものだ。

《憲法が成立した当初、憲法の平和主義といえば、日本が軍事力を持たないことを意味していた。》
それはそれで正しい。
《だが、いまの日本は、毎年5兆円弱の予算を使用する世界有数の軍事組織を持つ国家なのである。
憲法の平和主義が現在も守られているとしたら、それは軍事力を持たないことではなく、持っていいる軍事力の使用にきわめて抑制的な態度をとっていることをいうのだろう。》

氏は、軍事力の使用抑制に理解を示しながらも、日本の現状に疑問を呈している。
つまり・・・
《いまのように、個別的自衛権の行使はできるが、集団的自衛権の行使はだめ、という抑制のあり方はどうだろうか。
安全保障の現実から見ても、また憲法の理想からいっても、かなり問題があると思う。》

要するに軍事力をもている日本が、それを行使する場面を自国の都合だけで決めていいのか、ということだ。

やはり、「平和主義」の解釈を憲法にはっきりと明示すべきだし、国際社会の一員としての日本国の責務も十分認識すべきである。

こうした基本的な議論をオープンに進めてもらいたいものだ。
このプロセスを広く国民に知らせることにより、コンセンサスは得られるものである。

マスコミは、その役割の一端を担うべきである。

posted by 伊藤保徳 at 08:17| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月14日

記憶保持能力

今朝、久しぶりに小牧市倫理法人会のモーニングセミナーに出席した。

今日が記念すべき300回目のセミナーであるということ、知人がチラシを持って瀬戸までPRに来たこと、そして講師に興味があったことで出かけた。

300回記念ということで、普段より広い会場が用意されていたが80名満席であった。

さてお目当ての講師だが、チラシに寄れば「驚異の記憶保持能力を手に入れて学力・ビジネス向上」、「自らの能力に目覚め、感動する人が続出」などの文字が並び、興味津々であった。

いきなり度肝を抜かれた。
まずはメモ用紙に1〜20までの番号をふり、出席者からランダムに単語を書き並べた。
講師は勿論メモなどしていなかった。

20個単語が出揃ったところで、改めて、1番から20番まで「単語」を確認した。

たったそれだけで、20の単語が頭に入ったというのである。
検証だが、1番から順番でも、20番から逆でも、会場からランダムに番号を言っても「全て合致」したのである。

こんなパフォーマンスを見せられると「セミナー「にでたくなるものだ。
うまい営業である。

時間の都合もあり、このような記憶保持力を会得するメソッドまでは披露されなかったが、脳の使い方としていくつか勉強になった。

いままで感覚的にポジティブな言葉を使おうと思っていたが、これが記憶に大きく影響していることがわかった。
ポジティブとは前向きで、将来を見据えた言葉である。
つまり、過去の記憶(情報)を断ち切り、将来を展望している。
この将来の展望は、あたかも実現できできるかのごとく「今、ワクワクする」のである。

そのワクワク感や感動こそが「記憶」に残るというのである。

脳の中心にある「海馬」は情報の入り口と言える。
問題はそのすぐとなりにある感情を司る扁桃帯(へんとうたい・漢字が間違っているかもしれない)の働きこそが重要だという。

つまり、記憶というのは、「感動」とか「ワクワク感」が伴なっていないとできないものだそうだ。
確かにそうである。
ボーッと見ているテレビはほとんど頭に残らないもんだ。

なるほどと思った。

そもそも「脳の老い」とは、脳そのものが機能的に老いる事ではなく、「感情」や「感応」が劣化して脳が働かない状況を言うそうだ。
感覚的に共感できる話しであった。

朝早くでかけた甲斐のあったセミナーだった。

posted by 伊藤保徳 at 16:13| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月11日

活路を見出す

月刊誌「致知」12月号の特集は「活路を見出す」だった。

この特集テーマは、毎月1回担当している倫理法人会の講話テーマでもある。

今朝の瀬戸・旭倫理法人会ではこのテーマで話をした。
その中で、最も強調した点は、我が国の活路を見出すにはどうするか、ということであった。
それは現状の日本を憂いてのことだ。

特集記事の中で特に紹介したかったのは、田久保忠衛氏(外交評論家)と月尾嘉男氏(東大名誉教授)との対談記事であった。

その中に、田久保氏の「振り子を真ん中に戻す」という話は印象的だった。
「振り子を真ん中に戻す」とは、敗戦によって連合国によって大きく触れた振り子を真ん中まで戻すということ。
それは、戦前のそれに戻すというのではなく、日本国の原点に戻るということである。

建国から今日まで、長期永続の国家としての価値観や伝統文化を継承するということにもなろう。

こういう議論が今までなさすぎた。
こうした議論を経レバ、憲法改正は必然事項となるだろう。

日本という国を定義し、今後どうするのかという方向付けをすべきであり、そこから全てのことが発想されなくてはならない。

日本の姿を明らかにし、国民の大多数が共有すべきである。

これが、日本が活路を見出す第一歩だといえよう。

posted by 伊藤保徳 at 15:02| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月10日

活路を見出す

「活路を見出す」とは、月刊誌『致知』12月号の特集テーマである。

記事を読みながら、「活路を見出すには?」と考えてみた。
いろいろな方法がありそうだが、遡って考えてみると、概ね二つの方法があると思う。

一つは、「原点に立ち戻る」こと。
原点から考え、行くべき道(つまり活路)を見出すこと。

もう一つは、目の前にあることを懸命に行なうこと。
自身の取り組んでいることが正しいと信じ、やってやってやりぬくことである。

なにか障害にぶつかった時、このどちらかの方法で「現状打破」をしているようだ。

特集の中で、日本の現状を憂い、百年の大計を持って「活路を見出そう」という対談記事があった。
外交評論家の田久保忠衛氏と東大名誉教授の月尾嘉男氏である。

日本の活路を見出すとすれば、まずは「原点に立ち戻ること」であろう。
建国や今日まで正しく見つめなおした時、今我が国日本がどんな使命感を持ち、どう舵を取り活路を見出すかが自ずとわかるのではなかろうか。

一つは憲法であろう。

かの大戦で敗れ、米国からのおしきせの憲法を守ろうとしている。
あたかも日本の起源が敗戦の1945年にあるような発想である。

つまり、あの敗戦以前の歴史を全て否定しているのである。
そうではない。

キチンと歴史を見つめ、冷静にその流れを見た時、自ずと次代への道が開けてくるように思う。

12月号の特集「活路を見出す」で、いろいろ勉強させてもらった。

posted by 伊藤保徳 at 08:40| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月09日

社説を考える

11月30日の中日新聞「社説」で、道徳の教科化や教科書検定に関する批判が述べられた。

新聞各紙の記事は、その取り上げ方や記事の構成などにおいて各紙の「個性」が出るのは当然である。
「社説」ならば、それが一層色濃くなると思う。
そういう点から、社説は注目している。

こういう前提で読んでいるが、11月30日の「社説」は些か偏りすぎである。

道徳の教科化に「真っ向からの反対」である。

それも一つに意見だとすれば、「対案」を示さなければ議論にならない。
つまり、対案がなければ「反対のための反対」という、どこかの政党と同じである。

道徳について所見が述べられている。
《道徳とは更に幅広く人格や価値観の形成といった内面に深く関わる領域だ。
学校生活に限らず、地域や家庭でのさまざまな体験や人間関係を踏み台に、子どもが手探りで心の肥やしとしていくものだろう。》

一見その通りである。
しかしそれは、家庭や地域での大人たちが「人格的に模範」であることが前提であるが、現実的には「無関心」「個人主義」が横行し、とても子ども達が学ぶ環境にない。
だからこその教科化である。

また、教科書検定の問題で、《明治天皇の教育勅語が軍国主義の支柱にされた過去の教訓を忘れず、警戒したい。》と結んでいるが、これもまた極めて偏った意見である。

「教育勅語」が「軍国主義の支柱」という決め付けも極端だ。

過去の教訓というのは、そこから何を学ぶかということであり、安直に「やめてしまう」事ではない。

日本のことを思い、次代を担う子ども達に今教えるべきことは何なのか。
国民一人ひとりが真剣に考えなくてはならない問題だ。

そうした問題提起をするのも「社説」に求められている一つではなかろうか。

posted by 伊藤保徳 at 07:04| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月02日

成績の公表

いわゆる「学力テスト」の結果を公表することを文部科学省が認め、学校別の成績公表は市町村の教育委員会に委ねられた。

この方針に反対の姿勢で紙面と作っているのが中日新聞だ。
もう、40年くらい購読している中日新聞であり、産経新聞の購読を始める前までは、それが(中日新聞の記事)が世の中の一般論だと思っていた。

しかし、「ちょっと違うなあ・・・」と感じる記事が少なくない事に気がつき始めた。

その一つが「学力テストの成績公表」に関する記事である。

全体の論調は「公表は絶対駄目、その昔学力テストを止めたということが教訓になっていない。」という感じである。
勿論賛成派の意見も掲載しているが、圧倒的に「反対」というスタンスだ。

「公表反対」の理由が、「競争をあおる」というだけでは説得力に乏しい。
その競争による悪影響も縷々述べられているが、「本当か?」という疑問がある。

こんな風に考えると、「そこまで反対する人たち」というのは誰?ということになり、それは「日教組」だと想像するに難しくはない。

日本の現状を見た時、右肩上がりの経済第一主義からの転換が求められている。
しかし、なかなか転換できず、ここ20数年を経過してしまった。

反省をしてみると、やはり「教育」に多くの問題があるということで、今、教育改革に取り組み始めたところだ。
こうした、日本の状況変化の中での「方針転換」であり、そのことをマスコミは正確に捉えなければならないと思う。
さすれば、その昔学力テストが廃止になったことや、今回の成績公表についてももっと違う捉え方があってしかるべきだと思う。

因みに、一般的にいわれる「学力テスト」だが、正式には「全国学力・学習状況調査」といい、公表はテストの結果だけではないのである。

「学習状況」は、テスト結果の「要因・要素」であり、今後の教育指導にとても役立つものだと思う。
私は「公表賛成」であり、学力が少しでも上がって欲しいと願っている。

「子供は学校へ行くことが仕事」「勉強するのが仕事」
昔、私の祖父母はそういっていました。

学童、学生の本分を考えた施策を期待したい。

posted by 伊藤保徳 at 08:45| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月29日

地(知)の拠点整備

昨日、名古屋学院大学から情報誌「COSMORAMA」(90号)が送られてきた。

大学院の修了生であり、大学評議員を拝命していることもあり、発行の都度もらっている。

今号のトップ記事は、文部科学省の『地(知)の拠点整備事業』に名古屋学院の事業計画が採択されたというものであった。

名古屋学院大学は、早くから郊外型のキャンパスを目指し、瀬戸市の東部(品野)に自然豊かな学び拠点を用意してきた。
しかし、少子化の進展で学生を広く募集するにはこの「郊外」というのが問題となり、この瀬戸のキャンパスを持ったまま熱田に教室の大半を移したのである。

今回の「地(知)拠点整備事業」は、瀬戸と熱田の両地区に実施されるようだ。

文部科学省の「募集要領」を見ておらず、趣旨などわかってはいないが、情報誌によれば、319件の申請があり、52件の採択された由。
名古屋学院大学はその52件の中に入ったということだ。

事業の名称は、『「地域の質」を高める 「地」域連携・「知」識還元型まち育て事業』という。
「事業期間の5ヵ年を通して、全学的に地域を志向した教育・研究・社会貢献を進める」とのことだ。

瀬戸市にとっては大きなチャンスである。

大学と瀬戸市は今までも、いろいろな連携事業をしてきている。
しかし、「その成果は?」ととわれると回答に困るのではなかろうか。

大学との連携といえば、安直に「産学連携」という発想での付き合いであったように思う。
更には、理工系の研究などの専門分野であり、地域としてというより、地場産業と大学という関係であったように思う。

いうなれば、名古屋学院大学の専門である社会科学という分野での活用や連携が少なかったように思う。

そういう点で言えば、「まち育て事業」であり、全市的に大いに期待したい。

posted by 伊藤保徳 at 10:22| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月28日

見苦しい

猪瀬東京都知事が苦境に陥っている。

2020年のオリンピック開催地を東京に持ってきた立役者だが、あのときの喜びに満ちた顔はない。
取材を受けている姿や、会見の模様をみるにつけ、誠に見苦しい。

都知事選への出馬表明直後に、あの徳洲会から現金が渡ったとなれば、明らかに「選挙資金」である。
これがいわゆる市民感覚というもので、一般的な見方といえよう。

仮に「違うということであれば」、取材を受けた瞬間に「違う」と述べればいいし、返す必要もなかったのではないか。

最初の取材で言葉を濁し、しつこい質問に声を荒らげたところで勝負ありだった。
しかしその後、発言内容は変わり、ついには「借用証を見せての弁明会見」となった。

ここまで来るともう茶番だし、実に見苦しい。

こうなってくると知事周辺から「芳しくない情報」がボロボロでてくる。
権力の座についている内はダーティーな部分は隠れているが、その座が怪しくなると堰を切ったように出てくるものだ。

「嘘」も何度も同じように話している、それがあたかも真実のように思えてくるようだ。

潔く真実を話し、まずは侘びるべきだ。
その上で、身を引くべきだと思う。

「火のない所に煙はたたない」
多くの人に「疑われただけ」で、もう失格だと思う。

復活があるとすれば、そういう禊を済ますことが大前提である。

益々立場は悪くなる。
知事の個人的な問題ではなくなることの方が問題だ。
日本や2020年のオリンピックに対するイメージダウンである。

一刻も早く身を引くべきである。


posted by 伊藤保徳 at 08:41| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月27日

いささか疑問

今日の新聞はもとより、多くのテレビ局が報じたのは「秘密保護法案の衆院通過」のニュースであった。

そのことは事実であり、採決に当たっての党派別の状況なども詳しく伝えていた。
しかし、いささか疑問に思うことがある。
法案についての「賛否の意見」の取り上げ方である。

最初に目を通したのは読売新聞だった。
法案が衆議院を通過したことを「淡々と」伝えていた。

次に見たのは中日新聞であるが、「法案は強行採決」「世論の多くは法案に反対だ」ということを全面に、反対派の行動ばかりを報じていた。
読売に「淡々」に比べ中日の「感情的とも思える報道」にいささか疑問を感じた。

新聞社には「公」という立場があると思う。
従って、この法案の審議や各種団体の意見を紙面に掲載するのであれば、「反対の意見」もあれば「賛成の意見」も載せるべきではなかろうか。

「こうした紙面構成は、一種の世論誘導では?」
という意見も聞こえてくる。

いささか行過ぎた報道姿勢ではなかろうか。

人間のやることであり、完全中立など貫くことはできまい。
であるが故に、「反対意見」や「賛成意見」、そして時に「中立意見」などを掲載し、ことの判断は「読者」に委ねるべきであろう。
しかし、現実は明らかに偏っている。

国民に十分な説明があったかどうかといえば足りないと私も思う。
でも、選挙で選んだ人たちが決めようとしている事に理解を示す必要もある。

こう考えてくると、幾つも疑問がでてくる。

採決の時「退席をした議員」がいるが、あの態度こそ「批判されるべきもの」ではなかろうか。
何のために国会議事堂にいるのだろうか。
それで、国会議員の責務が果たされているのだろうか。
こういうこそメディアで取り上げてもらいたいものだ。

もっと勉強し、ことの正しい理解ができるようになりたいものだが、マスコミは、そのための情報提供者になってもらいたいものである。

posted by 伊藤保徳 at 21:59| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月26日

実践の報告

現在、、瀬戸・旭倫理法人会で「純粋倫理」の理解を深める勉強をしている。
しかし、ここでは「知識としていくらもっていても何の価値もない」、といわれる。
つまり、「実践こそ全て」なのである。

問題はこの「実践」である。

倫理運動の創始者が著された「万人幸福の栞・十七か条」は確かに素晴らしい。
しかし多くの会員は「素晴らしい」と感嘆し、そのことを記憶にとどめるが実践にまで至らないのである。

何故実践しないだろうか?
素直に考えてみるに、「素晴らしい!」と感嘆したならば、自らもそうなりたいと想い実践するものだ。
しかし、実践にまで至らないのは「本当に心の底からいいことだ」、と思っていないのではなかろうか。

要するに、「純粋倫理」を前に、妙に「構えてしまっている」のではなかろうか。

モーニングセミナーなどで「純粋倫理実践報告」を聞くことがある。
みんなの前で「実践報告」ができる人は、何か特別な人と想うかもしれないが、「実に些細な生活の変化」を述べていることが多い。

そもそも倫理とはそういうものではなかろうか。

決して構えてするものではないし、「今から実践します」、と宣言するものでもない。

日々の生活の中で、心遣いや言葉遣いを少し直すことでも倫理を実践していることになると思う。
(それが「相手のことを気遣い、喜んでもらうためのものであれば・・・。)

今朝、春日井市倫理法人会で講話を担当した。
テーマは「働くよろこび」であり、会社勤めを振り返りながら、その時のことで、倫理的であったかどうかを見てみれば、明らかに結果が違うのである。

自社のこと優先で考えればうまくいかないし、相手のことを最優先に考え行なったことはうまくいっている。これこそ倫理的であり、実践である。

要は、キチンと意識して行いそれが継続できているかどうかであろう。

講話がすみ、そんなことを思った。


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2013年11月24日

祝祭日の意義

昨日は勤労感謝の日であった。
国民の祝日であり日の出と共に国旗を掲揚した家庭や会社が日本でどれくらいあっただろうか。

私も二年前までは国旗の掲揚はしていなかったが、「我が国の起源」を勉強する機会に恵まれ、国旗や国歌の重要性を再確認し、具体的な行動として国民の祝日には国旗を掲揚することにした。
ほどなく同志が現れ、「国旗を掲揚する会」を設立した。

祝日の度に、その意義を思い返している。

11月23日は勤労感謝の日であったが、同時に「新嘗祭」でもあった。
このことが新聞などメディアでほとんど取り上げられないのは寂しい限りだ。

世界のどこの国より国家としての歴史は永く、建国以来125代続く天皇制は世界に類がない。
その根本にあるのは「大自然への祈りであり、感謝」である。
天皇陛下は国民や国家の安寧のために、ただただひたすらに祈りを捧げてもらっている。

そういうことを考えると、11月23日の勤労感謝の日は、日本人にとって特に哀切にしなければならない。

自然の恵みをはじめ、あらゆる人やものの働きにまで感謝の念を捧げるべきであろう。

しかし現実は「行楽」に、あるいは自己中心の楽しみにだけに時間を費やしてるようにしかみえない。
これではいけないのではなかろうか。

祝日は学校も休みである。
しからば地域で、あるいは家庭で祝日の意義を考える時間をもつべきではなかろうか。

最低限、家族全員で食卓を囲み、自然の実りやあらゆる働きに感謝しあうひと時をもつべきだ。

こういう内容が、産経新聞の今日の朝刊(「主張」)にあった。
そうあるべきだと思う。


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2013年11月12日

マスコミの報道

最近特に感じるようになったことだが、マスコミの報道が正確ではないのでは、という疑問だ。
実際すべてを知っている人はごくわずかであり、報道記者に完璧を求めることは難しいこともわかる。

であるが故に、より客観的な事実を知らせるということが望まれる。

この、客観的事実というのもなかなか難しい。

個人的には、常に国益を意識して欲しいと思っている。

最近の報道で注目されているのが元総理大臣小泉さんの「脱原発」発言だ。
今日、記者クラブで講演されるようで、発言の意図がより正確に報じられることを望みたい。

しかし、今日も朝刊一面に「細川元首相も脱原発」という見出しがあり、記事の論調は「安倍政権批判」である。(中日新聞)

私がこうした記事に「意図」を感じるのは、殊更に対立の構図を作っているということだ。
政府も未来永劫原発を続けるという考えはない。
また、小泉さんも「今すぐやめよう」というのではなく、エネルギー政策の将来として「脱原発を政府が宣言すべき」ということを語っている。

つまり、日本のエネルギー政策に「時間軸」を入れれば、それほどの対立には成らないと思う。
その上で、国民一人一人が、エネルギー問題を自分のこととして考えるような運動に発展させるべきであろう。

それをマスコミが働きかけるべきではなかろうか。

私はそう思っている。

今日の小泉さんの話に注目したい。
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2013年11月07日

整理整頓術

企業活動で、まずは全員で取り組むべきは整理整頓だと思っている。
「3S」とか「5S」とか言われるものだ。

これは、オフィスや工場だけのものではなく、一般家庭、日常生活でも全く同じことが言えよう。
ただ、「5S」などと、硬い言い方をせず、整理収納術などという言い方をする。

言い方はともかく、一般人にわかりやすい表現がであるという点は重要だ。

収納カウンセラーを名乗る飯田久恵さんが、ある雑誌でわかりやすく解説している。

「我が家がオアシスになる収納術」と題して整理整頓のポイントを述べている。

飯田久恵さん流の「整理収納」の極意
1.「収納」とは、ものの「定位置=指定席」をつくること。

2.「片づけ」とは、使ったものを正しく「指定席」に戻すこと。

3.「整理」とは、不要なものを処分すること。

「片づけても、なぜか部屋が散らかる」という人は、この三つを混同しているという。

言われてみればそうだ。
散らかっているのは、使ったあとにもとあった場所に戻していなかったり、不要なものなのに、何となく手元に置いておくからだ。

どうやらポイントは、「戻す」と「処分する」のようだ。

また使うから・・・
いつか必要になるから・・・

これをすぐやめるべきである。

posted by 伊藤保徳 at 08:37| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月29日

お粗末な情報発信

日中、日韓関係があまり芳しくない。
元はといえば、民主党政権下での首相の不用意な発言やおかしな外交がそうさせているといっても過言ではない。
しかし、そんなことはわが国内のことであり、国際的には日本自らが毅然とした態度で臨むべきであろう。

予てから思っていたことだが、あの大東亜戦争以後、我が国はおかしな歴史観をもつようになってしまた。
つまり、自虐的歴史観である。
「我が国日本は本当にヒドイ国だった。近隣諸国に大変な迷惑をかけた。」
こうしたことが学校教育で教えられてきた。

そして、我が国の歴史をキチンと見るということよりも。ひたすら「経済成長への道を突っ走ってきた」のである。
結果、経済大国とまでいわれるようになったものの、「自国の正しい歴史や誇り、そして素晴らしい文化までも幾つか捨ててしまった」ような気がしてならない。

原子爆弾の投下や東京裁判はが違法であたことや、中国や韓国との間でまことしやかに言われるいくつかの事件は根拠がないことなど、もっと日本の姿勢を示すべきである。
つまり、きちんとした情報を的確に発信すべきだと思う。

今朝の産経新聞に、東京大学大学院の伊藤元重教授が「お粗末な日本の情報発信」と題し、改めて『日本発のニュースや情報番組を教化すべきだ』と述べている。

NHKの海外放送は、相も変わらず「お料理番組や子供番組を流している」そうで、全くノー天気である。

教授は述べている。
『日本を標的にしたような悪意のある情報発信が世界に溢れている中で、日本の対応はあまりにもお粗末である。

専門家向け、一般国民向けなど、いろいろなレベルで戦略的な情報発信を仕掛けるという取り組みをを強化しなくてはならない。
今こそ、日本からの情報発信について、そのあるべき姿について論議を活性化しなければならない。』

全く同感である。

posted by 伊藤保徳 at 15:58| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月27日

偽装か誤表示か?

阪急阪神ホテルズ系列のレストランで、メニューと違う食材が使われていた問題が発覚した。
かの有名な「ザ・リッツ・カールトン大阪」でも同様の問題があった。

一流のレストランで、表示と違うものを出され、それを食した人にとって誠に腹立たしい問題だ。

その腹立たしさを、更に追い討ちをかけたのが社長らによる記者会見であった。

私もテレビで見たが・・・
「偽装があったことを認めるんですね?」という質問に、「いえ、偽装ではありません。誤表示をしてしまいました。」との返事です。

更に追求がありましたが、社長は憮然とした態度で「誤表示であった」と言い通した。

現場の社員はどんな思いでこの発言を聞いたのであろうか。
経営トップへの信頼が著しく落ちてしまったと思う。

テレビで消費者問題の専門家がコメントしていた。
「偽装であろうが、誤表示であろうが消費者を欺いたことに違いはない。会見で、偽装ではない、誤表示だと強調すればするほど経営者の責任逃れの姿勢を強く感じてしまう。偽装でもご表示でも最終責任は経営者にある」・・・と。

全くその通りであり、あの会見で「経営者の自己保身」がクローズアップされた形だ。

それにしてもである。
高級な食材を使うべきところを、値段が半分とか三分の一といった食材を使っての調理に疑問を感じなかったことなど考えられない。

お客さま不在で、「儲け第一主義」の結果であろう。

経営層からの指示なくしては発生し得ない事だと思う。
経営陣を総入れ替えでもしないと信頼の回復はむつかしいのではないだろうか。 

posted by 伊藤保徳 at 06:36| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月26日

社説の比較

産経新聞に「社説検証」というコーナーがあるが、毎回楽しみであり、とても勉強にもなる。
自宅での新聞購読は限られた一紙というのが一般的であり、なかなか読み比べることはできないものである。そしてそれは、購読している新聞社の考えに染まるものである。

評論家などは、全国紙術恵に目を通しているそうだが一般人はそういうわけには行かない。
だから、産経新聞のような「社説検証」という記事はありがたい。

10月24日の新聞では、「首相の靖国参拝」を取り上げていた。

首相は、8月15日には参拝されず、秋季例大祭に参拝されるかどうか注目されていた。

結果は参拝されなく、「真榊」を供物として奉納されたのである。
そして、各紙社説でこの事を取り上げたのである。

「首相と靖国参拝」を論じた主な社説
産経:やはり首相は直接参拝を        20日付
朝日:戦没者追悼/新たなあり方探る時    19日付
毎日:参拝見送りは妥当だ          18日付
読売:的外れな中韓両国の対日批判      21日付

以上のように、「産経新聞」だけが「首相参拝」を求めているが、他の三紙(朝日・毎日・読売)は「追悼施設の議論を」となっていたという。

記事を読んで思ったことは、「実に分かりやすい」ということだ。

どの記事を支持するかは個人の自由だが、一つ思ったのは、「どんなスタンスで書かれているのだろうか?」ということであり、それは新聞社の方針でもあろう。

どちらが正しいのか?という議論もナンセンスである。

ではどう読むかということだが、私は「我が国にとってどうか?」という視点が最も重要だと思っている。
「我が国にとって・・・」という「我が国日本」をどう認識しているかが問題だ。

これは絶対的な客観性など無理なことではあるが、そろそろ「自虐的な歴史観」から抜け出すべきだと思う。

読んでいる新聞記事が、「絶対に正しい」とは決して思わないようにしたいものだ。

posted by 伊藤保徳 at 10:55| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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