2013年12月27日

靖国神社参拝

昨日、安倍総理が靖国神社に参拝された。
第一次安倍内閣の折、「靖国神社に参拝できなかったのは痛恨の極み」とまで話されており、総理にとっては念願かなった思いであろう。

予想されていたとはいえ、マスコミ各社(産経新聞はのぞく)は批判の大合唱だ。

一方ネットでは、「よくぞ出かけた」「嬉しくて涙が出た」などという書き込みが目立った。

私は、昨日の夕刊(中日新聞)と、今日の朝刊(中日新聞・産経新聞)をざっと見て感じることは、安倍総理が参拝した意味を掘り下げて報じたところが無いことを残念に思う。

特に、テレビや中日新聞は「あなたたちはどこの国民なんですか?」と問いたくなった。

世論という曖昧な意見をベースに、自国の総理大臣に対して「間違った歴史認識をしている」という韓国や中国の立場で批判をしている。
むしろ逆でなくてはいけないと思う。

なにも殊更に擁護する必要はない。

間違った歴史認識という隣国のコメントに対し、「なぜそういうのか?」「歴史認識は自国の都合ということもあり外交上に持ち出すのは問題では?」ということについて、もっと広くいろいろな考えを紹介すべきではないか。

靖国神社への総理参拝について批判的な人の意見を聞くと、その多くは「隣国を刺激すると我が国に不利益だ!」というもの。

このことは、「損得勘定の問題」ではない。

やはり「正しいか否か」で判断すべきであろう。

私は思う。
我が国のために尊い命を捧げられた御霊に尊崇の念を捧げるのは究めて当然のことだと思う。
この事を国民が「統一の価値観」として持つべきである。
その上に外交政策があるべきだ。

価値基準が「損得」というのは、あまりにも近視眼的である。


posted by 伊藤保徳 at 09:46| Comment(2) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
これは江川氏による首相の靖国参拝を批判した記事に対して投稿したものです。
1月19日 「国内問題として首相の靖国参拝を考える」 江川 紹子

江川さんが云っている「理性」とは「純粋理性」なのか「実践理性」なのか? 思弁的「純粋理性」から解き放たれて実践理性の「絶対の自由」を得て、始めて真の宗教=「神の存在と霊魂の不滅」の境に入ると云う宗教の根本が理解されているとは思えない。貴方は、一体、オウム真理教事件で何を学んだのか? 単なる詐欺師と真の宗教者との判別すら出来なかった吉本隆明や中沢真一と同じレベルなのか。貴方がもう一歩高みに上がるためには宗教の本質を「実践」を通して体得することと、『喧嘩両成敗』という日本古来の倫理の法を深く考えてみることです。第二次世界大戦,東京裁判,靖国参拝等が違って見えて来る筈です。歴史は修正されるために存在するのです。もし私たちに進歩ということがあるとすれば、今の見識を以て過去を見るとき、そこに修正というものが必然となるのです。
Posted by 別府愼剛 at 2014年01月22日 03:12

靖国参拝について

私自身、確固たる信念がなくマスコミに流される傾向がありますが、ひとつだけ思います。

それは、安部さんは果たして、野党時代あるいは政治家になる前(一般ピープル時代)にも参拝していたのか、ということです。

大臣や首相になって参拝するからマスコミが騒ぐのであって、人として信念があるなら、どんな立場でも参拝すべきではないかと思います。

私の、靖国参拝に関して感じることです。
Posted by 武田 at 2014年01月28日 09:46
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