2013年09月29日

日本人の心

1週間ほど前の産経新聞に、カタールのタミム首長のことが載っていた。
タミム首長は、アラブ諸国で最も若い国家元首で本年6月に33歳で就任したばかりである。

そのタミム首長がモットーとしているのが「日本に学べ」というものだそうだ。

記事はその経緯が紹介してあった。

《「どこか好きな国をみてこい」。
首長は10年前、皇太子になったとき、こう勧められ、選んだ国が中国だった。

だが、目にした光景はこうだった。
地下鉄に人々はわれ先に突き進む。子供がゴミを街中にぽんぽんと捨てる・・・。
落胆と幻滅を強めたことは想像に難しくない。

次に足を運んだのは日本だった。
新幹線に整然と乗り込む乗客たち。ゴミ一つない東京ディズニーランド・・・。
いかに鮮烈な印象だったか、を首長は8月末にカタールを訪れた安倍晋三首相に披露したのだろう。

首相は記者会見で、その訪日に触れ、「秩序とマナーの素晴らしさに感銘を受けたとのことである」と紹介したほどだ。

皇太子時代の2009年5月には公式実務訪問賓客として来日し、天皇陛下にこう伝えた。
「カタールの教育に日本式を取り入れたい。日本の教育を尊敬している」。
この言葉どおり、首相訪問時の両国共同声明には首都ドーハの日本人学校がカタールの子供たちを受け入れ、「将来的な拡大を歓迎する」とうたわれた。》

記事では、カタール以外でも日本に熱い眼差しを向けている国は少なくないという。

今、突然の事ではないと思う。

我々の先人たちが、世界各国でいろいろな形で貢献していることもその要因の一つであろう。
そして、国内にあっても、昔からごく当たり前のこととして行なっていることが、人として、社会として素晴らしいことなのである。

何も威張る必要などない。
今までの通りでいい。

しかし、「秩序やマナー」を昔に比べたら「自分勝手な人たちが増えてきている」ことも事実だ。

もう一度、素晴らしき日本人の心に基づき、生活の総点検をしてはどうだろう。
日本人に向けられている「熱い眼差し」に応えるためにも。

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2013年09月28日

大学院での授業

今日から始まる名古屋学院大学大学院での集中講座で講義を一部担当する。
講座名は「経営システム論研究」である。

名古屋学院大学大学院は、1997年に社会人を対象として開設された。
名古屋の中心地「栄」に「サテライト教室」を用意し、授業は土曜日を中心にし、ゼミも平日の夕方からという内容で始まった。
今はこういう内容がスタンダードになったが、当時は新鮮だった。

仕事を終えたビジネスマンが、夕方からや休日に勉強するのである。

私はこの大学院の一期生として入学した。
最初は修士課程だけだったが、二年後には博士課程もでき結局6年在籍した。
我が社の社員にも勉学を機会として紹介し、10人ほど修学した。

そうした縁が有り、「実務者による授業」を行う事になった。
4年前のことである。

二ヶ月間の集中講義であり、今日がその第一日目である。
全部で8回、1回が90分間を2コマ行なう事になる。

今年私が担当するのは、第1回目と最終回の2回である。

内容は「実務的」ということで、我が社の経営システムを中心に、環境への適応、経営規模による変遷などを開発、製造、販売などの経営機能ごとに解説をする。
私の担当する第1回では、我が社の創業から今日までの経営を、日本型経営システムの実例として紹介する。

経営システムの理論研究ではなく、「企業研究を通じてた経営システム論」を展開することにしている。
2回目から7回目までは、「ものづくり」と「ひとづくり」という視点で会社の実務責任者から解説をする。そして最後は、今後の課題について院生達と議論をしようと考えている。

久しぶりなのでワクワクしている。

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2013年09月27日

幼稚なのは?

国際社会で日本の若者は幼稚だと言われているそうだ。
若者だけの事ではないような気もするが、日本人はどうも「幼稚」に感じられているようだ。

なかなか難しい問題だが、この「日本の若者は幼稚だ!」という現を肯定し、「では、なぜ幼稚なのか?」の原因を「日本の教育」に求めた意見が新聞にあった。

9月22日の産経新聞「解答乱麻」欄で、木村貴志氏(バッカーズ寺子屋塾長)が『子どもたちが成人するまで、「正解のある学び」と「同調圧力」の中で時を過ごし続けるからだ。』と述べている。

この二つの要素(「正解のある学び」と「同調圧力」)は端的で、極めて明解な指摘だと思う。

全ては「記憶すること」「みんなと一緒」というのが学校教育なのである。

一番欠落しているのは「考える」ことだ。
だから、「地頭がよくならない」のである。

木村氏はこの欄でいろいろな提言をしているが、毎回とても明解な意見である。
今回も日本の学校教育を「ズバッ!」と斬っている。

《子供たちが朝から夕方まで一日の大半を過ごす学校では、小学校から高校まで知識習得の学習が中心だ。

膨大な量の読書や実体験を前提とした本格的な口述や論述といった、深い思考力・表現力を要求される学びはほとんどない。

つまり、自分の考えをアウトプット(話す・書く)することを目的としたインプット(聴く・読む)ではなく、知識のインプット自体が目的になっている。》

そして最後に、橋本左内が15歳の時に著したといわれる『啓発録』の一節を引用しまとめとしている。

《「立志の大切さ」と同時に「稚心を去り」(幼稚な心を捨て去り)、「気を振るう」(恥辱を知り、損得や大勢に流されない負けじ魂を持つ)このと大切さを説いた。
子どもを子ども扱いしない教育が独立自尊の個を育むと私は信じている。》

全く同感である。
同時に、日常の学びが明確な「アウトプット」を意識してのことなのか、よく省みてみることが肝要だと思った。


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2013年09月26日

天候気候の倫理

ブログを毎日更新しようとすると、時に、テーマが見つからない時がある。
そうした場合、まず頭に浮かぶのは「天候」「気候」のことである。

日本は「四季」に恵まれ、季節感がよく感じられる。
それが故に「天候」を自分の都合で「良し悪し」をつけてしまうことがある。

一年中雪と氷に閉ざされているようなところでの、雪や氷に対する思いはどんなものであろうか。
反対に年がら年中太陽に照らされているようなところでの「久しぶりの雨」などはどう感じているだろうか。
そんなことを考えると、日本という国は天候、気候に恵まれているといって良い。

私が参加している勉強会(純粋倫理)で、「天候気候の倫理」という話を聞いたことがある。
これは、純粋倫理運動の創始者である丸山敏雄先生の教えだそうだ。

『天候気候の倫理』
思い通りにならぬ。その上今日も明日も一分一秒もはなれることのできぬ天候気候に対する心構え。

『順応』
そのまま素直に受けとって、手立てをして少しも不足を思わず反抗せぬこと。

『畏敬』
えらい力だと敬い畏れ、和やかな心でしたしむこと。

つまり、天候、気候には「順応と畏敬」で臨め、ということだ。
そして、次のような言葉が付け加えられている。

『人、天に順(したが)えば、天、また人に和す』

こういう心もちに到達したいものだが、なかなか難しい。

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2013年09月24日

二宮金次郎

「二宮金次郎」と聞くと何かしら懐かしさを感じる。
小学校に通った頃、校舎玄関の脇に「石の金次郎像」があった。
あの、薪を背中に、本を読みながら歩いている像」である。

聞けば、昭和30年代に入り、「教育のためにならず・・・」と、撤去してしまった学校もあるようだ。

どうしてそんな事になってしまったのか、教育改革を考える上できちんと総括しておく必要があろう。

さて、二宮金次郎のことを話題にしたのは、「致知」9月号に、「金次郎のものの考え方」について対談記事があり、そのないようにとても興味を持ったからである。

あわせて、今月の瀬戸・旭倫理法人会での講話内容を「金次郎の言葉」にしようと準備したからだ。

こうして、二宮金次郎のことをいろいろ考えると、情報も集まるようで、私の古いメモ帳の中にも金次郎の言葉があった。十数年前にメモした「金次郎の言葉」である。

《言葉には自分の思いの一切をかける。
従って、一言一言に命をかけなければならない。》

《「分度」・・・収入に応じた暮らしぶり。
「分際」あるいは「分限」・・・「責任と権限」》

いろいろ学ぶべきことがある。

関係する本を読んでみたが、
・現実こそが絶対という考え方。
・一般論に疑いを持ち工夫してみると、新しい発想が生まれる。
・現状を受け入れ、更に感謝する。

こんな意味の言葉が多い。

金次郎の言葉の数々は、「大人こそが学ぶべき」である。


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2013年09月22日

国を守る

「国を守る」という言葉を聞き、「それは当然だ」と思う人が多いとは思うが、身近な人に聞いてみると、「そんなことは考えたことがないのでピンとこない」、という人が多い。

「それは日本が平和だから・・・」と、ノー天気に構えていていいだろうか。
では具体的に何をすべきなのは、あるいは何ができるのか?と問われたとき明確な答えを持っていない。

「国を守る」に当然だという人の中にも、「では何をするか」がわかっていない人が多いことだろう。

それは、「国を守るということはどういうことか?」がよくわかっていないからではなかろうか。

私自身、十分に考えているわけではないが、数年前から意識をするようになった。
特に、ここ1〜2年の「領土問題」で一気に関心度は高まった。

まだ少数だろうが「国を守る」ということに具体的な思いをもった人が出てくるようになった。
例えば産経新聞(9月7日)の「読者サービス室から」という欄で、いくつかの意見が紹介されていた。

長崎県対馬市の約260万平方メートルの森林地が競争入札に付され、韓国企業が関心を示している記事に対しての読者の意見である。

《観光人に島を乗っ取られないよう東京都の尖閣基金や新たな募金で対応できないか》

《東京都の尖閣基金に寄付したが、この寄付金を入札に使って欲しい》

《国境の島々は国防の重要地域。都尖閣基金を充てられないか》

《全国に呼びかけるしかない。年金生活だが協力する》

ニュースに対してこのような意見が寄せられたという。

現在日本の土地は「売買自由」という状態なので、どうしても「基金」という発想になるのであろう。

まずは、「国を守る」とはどういうことかを明らかにし、国土という土地、地権者のものという土地、という土地についての考え方から明らかにする必要があるかもしれない。

そんな議論を始めてもらい、国民として「何をすべきか」も考えたいと思う。

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2013年09月21日

読書運動の理念

昨日に引き続き「メモ帳から」で、今回は「読書」に関することを紹介する。

秋は「読書」ともいわれるし、特に「木鶏クラブ」では「読書する」ことが基本になっているので改めて「読書のあり方」を考えたい。

メモ帳には、「読書運動の理念」としてして、全日本読書人クラブ代表世話人の竹下肥潤氏の言葉として書き込んであった。

読書運動の理念
『三慮』と『三忘』

『三慮』とは、読書会に臨む視点のことで、
一、自分の人生をどう生きるかを考え、早く具体的未来像を見つける。
一、来世紀日本に何をもって貢献できるかを考え、それを持っているか問う。
一、宇宙の中の地球を考え、何で世界に貢献できるかを問う。

『三忘』とは、読書会運の心得のことで、
一、年齢を忘れる。
一、肩書きを忘れる。
一、名利を忘れる。

大局観の重要性と、会にあっての謙虚さを説いていると思うが、実践するのはなかなか難しい。

ただ、代表世話人を務める「瀬戸木鶏クラブ」を省みてみるに、発足して5年間、「三忘」は心がけていたし、参加される会員も同じようにふるまわれていた。
だからこそ、5年間毎月の例会を一回も休むことなく継続できていると思う。

今後も、「三慮」と「三忘」は心に刻み、読書会に臨むつもりである。


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2013年09月20日

メモ帳の整理

私は気づいたことのメモは手帳の他に小さなノート(A6)を使っている。

手帳は「予定」と「会議記録」が中心なので何となく保管するようになり、昨年までのものが32冊手元にある。
小さなノートはあらゆることが書き込まれており、時の経過ともに内容は陳腐化し、保管の必要など全くないが捨てられずにいる。
しかし場所は有限であり、数日前から処分を始めた。

「処分を始めた」とは、内容をもう一度見てから処分するということだ。

細かく見るというより、ざっと目を通すというものだ。

ところが、所々に全く陳腐化してないメモがある。

そのとき強く心に残り書きとめたと思うが、時間が経過してもそれは変わっていない。問題は「記憶として消えてしまった」ことである。
そこで、その部分だけは破り取り、他の何かに記録として留めたいと考えた。
それで思いついたのがこのブログである。

これからメモ帳からの「輝く言葉」をここに書き連ねようと思っている。
タイトルも考えたい。

【人をつくる】
「人をつくる」というが、結局は「自分を育てる」ことだ。
「人をつくる」とは、@魂を植えること A志をもたせること

【心の病気】
人には5つの心の病がある。
病を知り、それにかからない精進をすることこそ自分磨きである。

「5つの心の病」
@甘え
A自惚れ
B驕り
Cマンネリ
Dやっかみ

これらは「松下幸之助氏の言葉」だという。

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2013年09月19日

おもてなしの心

2020年のオリンピック誘致でのプレゼンテーション。
猪瀬知事が「プレゼンは情熱だ!」と語っていたが、その情熱で東京開催が決まった。

そのプレゼンの中で「お・も・て・な・し」という日本語が使われ、これまた話題になっている。

「もったいない」と並び、素晴らしい日本語であり日本人の心といえよう。

このことに関連し、「おもてなし」とはまさに日本の心の表現であるとし、この「おもてなし」を女性的表現とすれば、男性的にいえば「武士道」である、という意見があった。
9月14日の産経新聞「正論」である。
評論家の屋山太郎氏が述べている。

私自身は賛同できる考え方である。

「武士道」というと、佐賀の「葉隠れ」を思い浮かべる人が多く、その真髄は「武士道とは死ぬことと見つけたり」で、戦時中、軍部がこれを戦意高揚に利用したため、好ましく思っていない人もあるが、実は違うというのである。

「いつ死んでも悔いがないような生き方をせよ」
「潔くあれ」
「負けた相手の心情を思いやれ」
「義を見てせざるは勇なきなり」
などなど、素晴らしい考え方であり「倫理観」ともいえる。

屋山氏は、こういう精神をもって「東京五輪」を迎えようと述べている。

素晴らしいと思うし、日本国、日本人の素晴らしさを世界に発信するいい機会である。

国民一人ひとりが「もてなしの心」を持つようになれば、隣国との緊張関係、大国との連携なども変わってくるように思う。

2020年までによく勉強し、そうした機会に備えたいものである。


posted by 伊藤保徳 at 10:06| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月18日

社長の仕事

今朝のモーニングセミナーは、倫理研究所参事で法人アドバイザーの岩崎氏であった。
今年創業40年を期に社長交代をしたとのことであった。
そのベテラン経営者が「社長の仕事」というテーマで講話をされた。

なかなか興味深い内容であった。

「社長の仕事」として、7項目が紹介された。
1、社長は、朝一番早く出社すること
2、社長は、会社のトイレを掃除をすること
3、社長は、人材育成を最重要視すること
4、社長は、絶対に赤字を出さないこと
5、社長は、経営計画書を自らつくること
6、社長は、仕事を趣味ぐらいにすること
7、社長は、寝ても覚めても強烈に思い続けること

以上である。

この7項目、講師自らが実践してきたことだというから驚く。
しかも、「中小企業なんだから当然だ!」という雰囲気であった。

私の周りには、ロータリークラブをはじめ、いろいろな会に所属している「社長」がいる。
その殆んどは「中小企業」である。
しかし、上記7項目を全て実践している人は「一人として知らない」。

これを実践している講師の企業が、どれほどの内容かは知らない。
でも「素晴らしい内容」のようだ。
故に、自信をもっての講話であった。

これからイメージできる社長の姿というのは、「寝えも覚めて仕事、仕事」と考えがちだが、どうも違うようだ。
つまり、必死ではあるが、悲壮感というものがない。
与えられた現実の中で、自分のできることを「素直に、一所懸命に取り組んでいる」という。

この点が難しい所である。

朝早いこと、トイレの掃除をすることなど、「自分磨き」がベースにあり、常に「利他の精神」で仕事に取り組まれているようだ。

テクニカルな事ではなく、自分を磨きながら、人が喜ぶことを懸命に行なっている。

考えてみれば、実にシンプルな生き方だと感じた。
「社長の仕事」というより、「社長の生き方」ではなかろうか。

posted by 伊藤保徳 at 21:40| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月17日

食餌と食事

中日新聞に「味な提言」という欄がある。
いうなれば「食べ物」「食べること」などを中心にした内容で、その世界の専門化がいろいろな考え方を示している。

意識し出してから4人目くらいになるが、今は、中部大次世代食育研究センター長の横田信治氏が執筆しているが、9月15日は『食餌と食事』と題した一文だった。
「食事」という漢字の使い方についてである。

氏によれば、今から40数年前は「食事療法」といえば、『食餌』という字を使っていたという。
いうなれば、「餌」をどうするかということであったようだ。

「食餌」が一般的に「食事」と書くようになった経緯を述べているので紹介する。

《「食餌」という用語は、食べ物を文字通り「餌」ととらえ、さまざまな病気の治療・予防のために、摂取する食品の栄養学的成分や量を処方し、管理するという捉え方が前面に出ています。

医学的、あるいは科学的にはそういうものだと理解していました。
それで「食事療法」という言葉を押し付けられたときには、通俗的で非科学的な響きを持ているように感じてしまいました。(中略)

ヒトの摂食行動は、単に生命維持の本能に基づく栄養因子の摂取ではなく、文化としての食生活の側面がはるかに重要な要素になっていて、それこそが「食事」である。

「食事療法」とは、栄養素の成分と量にとどまらず、文化としての食事、つまり味覚や嗜好はもちろん、食べ物の外見やそれを取る環境、雰囲気なども含めた総合的なものであろう、というわけです。》(以下略)

今まで「食餌」と「食事」を分けて考えてこなかったこともあり、新鮮な意見であった。

更には、昨今ブームともいえる「ダイエタリー・セラピー」とは、「食餌療法」をさす用語であり、「食文化などを含む食事療法」とは違うという指摘です。

改めて使ってる言葉や文字に付いて考えさせられた。
無意識ほど怖いものはない。

豊かな言葉や文字を持っているからこそ、もっと気をつけねばと思う。

posted by 伊藤保徳 at 08:49| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月16日

ブルーリボン

今日の産経新聞第一面に、「拉致問題の啓発活動」のことが紹介してあった。

《被害者全員の救出を訴える「ブルーリボン」着用の呼びかけ、拉致問題の解決を求めるポスターの掲示やチラシの配布、都道府県議会での議員連盟設置など計10の評価項目について、平成24年度の実施状況を調べた。》

政府はこれまでの実績を点検し、今後積極的な活動を促す狙いのようだ。

しかしながら、個人的には「ブルーリボン」と「ポスター」くらいしか認識がない。
考えてみたら、傍観者になっていたようである。

まずは「10の評価項目」を知らなかった。
《都道府県》
@ブルーリボン着用の呼びかけ
A広報紙への掲載
B署名活動
Cコンサート
Dポスター掲示・チラシ配布
E講演会・集会
Fラジオ
G映画やDVDの上映
Hパネル展示

《都道府県議会》
@議員連盟設置

この10の項目が各都道府県でどれほど実施されているかということ。
そのことが調査され、主だった結果が掲載されていた。

10項目中9項目が実施されてるのは「新潟」「福井」「神奈川」「鳥取」「愛媛」「熊本」の6件で、被害者のいる地域ではその関心も高いようだ。

一方、実施が2つ以下という所が7県ある。
「秋田」「山形」「愛知」「三重」「奈良」「和歌山」「長崎」である。
私の住む愛知県は、「ポスター掲示・チラシ配布」の1項目だけで「最も関心が低い」県である。
残念である。

その「ポスター掲示・チラシ配布」であるが、確かに実施している県は多いようだが、全てではない。41都道府県だという。

各県でバラつきがあるのは何故だろうか?
「政府」で決めていることだし、国民の関心度は高いといえよう。
それが、地域によってこれほど差が出るのは「問題」ではないか。

何故そうなったのかをキチンと分析すべきであろう。

記事によれば、今後はこういう状況を公表していくとのことだが、もっと早く徹底し、「国民的運動」にするべきだと思う。

それにしても愛知県は問題である。

posted by 伊藤保徳 at 11:36| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月14日

式年遷宮に思う

お伊勢さんの式年遷宮。
今回はことのほか大きく取り上げられているようだし、参加する人たちもとても多いときく。

今から20年前にも行われたが、全く記憶にない。

1993年といえば、バブル経済崩壊後で「暗中模索」の状況であった。
その頃の私は、「会社人間から目覚め、地域の行事に関わり始めた」時期であった。
「経営改革」と「地域行事への参画」に多忙を究め、お伊勢さんの式年遷宮には全く興味がなかったといえる。

あれから20年経つが、その間、経営改革に目処が立ち、これから将来に向け何をすべきかを考え「人材育成」の積極的な取り組みへと変わっていった。
当然ながら、歴史理解の必要性を強く認識し始めた。
そして21世紀となった。
心が大きく変わったようだ。

2000年となり、お伊勢さんにキチンとお参りした。
瀬戸の産土神といわれる深川神社も改めて理解を深めようとした。
地域の氏神様に、毎月お参りするようになった。などなど。

こうした行動により、改めて「日本の国」のことを考えるようになり、興味も一層深まってきた。

従って、今回の式年遷宮行事を特別な思いで拝見している。

先日(9月8日)の中日新聞に、ドナルド・キーンさんの「式年遷宮への思い」という記事があった。

氏は、今までに遷宮の一番重要な儀式「遷御」を3回拝観されたそうだ。
これは、ご神体を「新社殿」に移す儀式で、どういう人が拝観できるのかよくわからない。

今年は間もなく行なわれるが、おそらく氏も拝観されることであろう。

いろいろな儀式、行事を拝見するに、「これそのものが文化」という気がします。
経済とか生産性などという概念は存在せず、「日本文化」そのものがそこで継承されているという感じだ。

そしてそれが、自然の摂理に適っているということ。

この事を学ばねばならないと思う。

幸い、お伊勢さんに近いところに住んでおり、本格的に学ぼうと思っている。


posted by 伊藤保徳 at 07:11| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月12日

学力テスト

平成25年度の学力テストの結果が発表になった。
この学力テスト、実施そのものにも賛否の議論があり結果の発表にもいろいろな意見があるようだ。

今回の結果発表を受け、全国的に話題になったのは静岡県知事の「ワースト100校長公表」という発言だった。
新聞(産経他)によれば・・・
《静岡県の川勝平太知事は9日の定例記者会見で、平成25年度の全国学力テストで県内公立小学校の国語Aの成績が全国最下位だった結果を受け、成績が悪かった100校の校長名を公表したいとの意向を示した。》というもの。

テストの実施要領では、各都道府県の教育委員会に市町村名や学校名を公表しないよう求めており、この知事の意向が波紋を広げているという。

知事は、「(成績が)最低というのは教師の授業が最低ということ。教師は大人なので責任を持ってもらい、反省材料にして欲しい」、とまで発言している。

従来から、教師の指導責任をどう考えるかはよく議論されることだ。
表立った意見は言わないまでも、現在の義務教育を担当する教師への信頼感は決して高くない。
全ての教師がそうだとは言えないまでも、「塾通いの子どもの多さ」を考えたら、信頼されていないと思わざるを得ない。

大変困った問題である。

教師に「責任をもって、反省材料にしてもらいたい!」という気持ちはよくわかる。
絶対そうすべきである。
そうしなければ、学力テストの意味がなくなってしまうのではなかろうか。

新聞各紙でこの問題を取り上げているが、各紙各様である。

「社説検証」(産経新聞)で、全国学力テストが取り上げられているが、私が賛同できる「産経」「読売」の内容を紹介する。
「産経」
《学校の授業が児童生徒の学力向上に役立っているか、検証するのは当然である。教師にとっても自らの活動を省み研鑽を積むうえで、学力テストの結果の把握は欠かせないはずだ。より正確で、きめ細かな情報を得るため、全員参加の方式を続けるべきだ》

「読売」
《民主党政権下の抽出方式ではわからなかった市町村別や学校別の細かなデータが得られたのは収穫だろう。成績が振るわなかった学校に教師を手厚く配置するなど、自治体はテスト結果を教育施策に活用できる。今後も全員参加方式を継続し、学力を検証していきたい》

私にはこうした内容が、至極当たり前に聞こえるのだが・・・。


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2013年09月11日

さくらんぼ学園

昨日、瀬戸北ロータリークラブの事業で瀬戸市立瀬戸養護学校に行ってきた。
愛称を「さくらんぼ学園」という、肢体不自由児(者)のための特別支援学校である。

名前はもとより、どんな学校であることも知ってはいたが、実際に教室に入ったり、子どもたちと接するのは初めてであり、驚いたことが少なくなかった。

この学校の特色は、「小学部から高等部まで一貫教育を行なっている」こと、「一人一人の障害の状況や能力に応じた教育の実施」ということが学校要覧に明示してある。
だが、もっと特徴的なことは、「一般の小学校の中にある」ということではなかろうか。
つまり、瀬戸市立萩山小学校と同じ建物にあるということだ。

平成22年に開校し、本年の在校生は次の通り。
小学部児童・・・35名
中学部生徒・・・10名
高等部生徒・・・ 9名 合計54名

そして、校長先生他「県費職員」が53名。「市費職員」が13名という体制だ。(合計66名)

他の養護学校のことを知らないのでこの数がどういう意味を持つかわからないが、生徒よりも先生たちが多いというのはそれだけ大変だろうということだ。

特色に示してある、「一人一人の生涯の状況や能力に応じて・・・」がうなづける。

そして、22年の開校の時、全部で12学級でスタートしたが、23年には15学級、24年には17学級、そして今年25年には21学級に膨らんでいるのだ。

期待が大きく、そしてその期待に応えられている結果であろう。

瀬戸市の「教育環境における大きな特色」いえると思うし、沢山のノウハウを蓄積しながら、より多くの人を受け入れることができるよう、頑張ってほしいものだ。

加えて、もっと広報をし、より多くの人たちに理解と支援を呼びかえるべきだろう。

校訓は『支えあい 活動的に 今を生きる』とある。
市民としても噛みしめたい言葉である。


posted by 伊藤保徳 at 17:04| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月10日

季節の変り目

ほぼ毎日ブログを更新していると、季節のことが気にかかるものである。

ブログは2006年7月から始めたので7年の歳月が流れた。
ブログを初めて一番変わったことは生活習慣である。

始めて1年半くらいは「深夜」に更新していた。
「一日の反省を記録に」、という気持ちであった。
しかし、2007年8月から「倫理法人会」で勉強をするようになってから一変した。

毎週水曜日は午前6時からのモーニングセミナーに参加するようになった。
5時半からの役員朝礼にも参加するため、起床は4時半になった。

最初はセミナーのある日だけ4時半起床だったが、毎日4時半起床が当たり前となり、朝、ブログを更新するようになった。
もちろん前日の反省が中心であったが、朝の時間窓を開けて外の空気を入れる、ということだけで季節を感じるようになり、旧暦などにも興味が湧いてきた。
そんなことがキッカケとなり、『日本の七十ニ候を楽しむ』(東邦出版)というような本も読むようになった。

さて、めっきり秋めいてきた。
7日は「白露」、そして昨日9日は「重陽の節句」であった。

「白露」とは、草に降りた露が白く光って見えることを言い、新暦ではおよそ9月7日からといわれている。

『日本の七十ニ候』によれば、「白露」は二十四節気の一つ。
それを三つに分け「七十ニ候」という。

「白露」の《初侯》を「草露白し」といい、7日から11日頃まで。
ついで《次候》は「鶺鴒(せきれい)鳴く」で、12日から16日頃。
そして三番目が《末候》で「玄鳥(つばめ)去る」。
つばめが南に帰る頃で、17日から21日頃のことだ。

日本人の持っている豊かな季節感である。
素晴らしい感性である。

しかし現代ではどんどん失われてしまい、残念でしかたない。

子ども達に、こういうことキチンと教えるこはとても重要だと思うのだが・・・。


posted by 伊藤保徳 at 08:09| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月08日

心の持ち方

昨日、第62回の瀬戸木鶏クラブ例会だった。
通常の、読後感の披露や意見交換の時間を1時間半にし、残り30分を今月25日に予定している、記念講演会についての準備状況報告会とした。

毎月思うことだが、皆さん熱心である。
それに、月一回とはいえこうした「学びの会」があるが故に本もよく読まれるようになったとのことだ。

良い本を沢山読んだほうがいい事はよく知っている。
しかしなかなか出来ないのも現実である。
そうしたなか、木鶏クラブという存在は、何がしの役割を果たしていると思っている。

昨日の場合でも、積極的な発言とともに貴重な体験談も聞かせてもらった。

その人(出席者の一人)は「癌」が見つかり、抗がん剤などを使用する治療を進められたが、考えることがありそれをしなかったそうだ。
そして、以前経験したことのある「断食」を行い、自身の考え方を変えたそうだ。

つまり、この病気は私自身への試練であり、キチンと受け止めよう・・・、と。
その結果、「癌」の進行が止まり、活性度も低下したとのことだった。
いうなれば、「癌細胞の活動が止まった」そうだ。

そしてしみじみ話された。
「心のもち方一つで、善くもなるし悪くもなる」と。

木鶏クラブでは、月刊誌『致知』を読んでの意見交換をしているが、9月号の特集が『心の持ち方』であった。
正に、この特集ピッタリの体験談であった。

医学の世界でも最近は「心」とか「気持ち」が臓器などにいろいろな影響を及ぼしていることが報告されている。
科学的に証明されていることだけが「信じられる」事だけではない。
体験によって実証されていることも立派な事実といえよう。

こう考えると、人の「心」とか「考え方」というのは極めて重要なことといえよう。
要は、全てのことを「肯定的に見る、認める」。そしてそれに感謝し、与えられたところで精一杯に頑張ること。
こんな当たり前のことこそが、精神、肉体共に健康である秘訣ではなかろうか。

生きているのではなく、生かされている。

最近、そう思うようになってきた。
そうなると、「当たり前のこと」が、とてもありがたく感じるものである。

posted by 伊藤保徳 at 16:30| Comment(0) | 人材育成 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月06日

台湾人の礼節

「礼節」という言葉を聞いてどんな思いをもつであろうか。

河村電器にには、昭和42年に制定された「従業員行動指針」、通称「五つの誓い」というものがある。
その5番目にあるのが『互譲礼節』という言葉である。

これを毎朝の朝礼で唱和していた。
今は、「理念のリニューアル」を行い、違う言葉になっているが、私が入社早々でもあり、「五つの誓い」はしっかりと頭の中にある。

しかしながら、今の日本人を見てみるに「礼節」をわきまえている人は随分少なくなってしまったように思う。
第一、学校教育で指導されなくなったのである。
これでは歳月の流れと共に希薄になって当然といえよう。

そんな思いを抱いている中で《台湾人の礼節》というコラムを見つけた。
今朝(9月6日)の産経新聞である。

「台湾有情」という欄で述べている。(吉村記者)

今期上半期、中国から台湾への旅行者数は約142万人で前期比約12%の増だそうだ。
そこで、中国と台湾とを比べ、『台湾には、中国での文化大革命で失われてしまった伝統的な「仁義礼智」などが残っている』とブログで指摘し、話題を呼んでいるそうだ。

一方、台湾人で北京大学で学んでいる有名作家の息子が、中国紙のインタビューに、『中国の伝統文化を守っているからではなく、日本統治時代の影響だ』、と答えたことで、こちらも話題になっているという。

二つの意見は、いみじくも「台湾人は礼節を重んじそれが実践されている」と言っている。
ただし、その原因や背景は違うというのである。

近隣の国々と、政治的には緊張関係が増している。
しかし、中国韓国そして北朝鮮以外では全く違うのである。

この実態こそ、改めて我が国が誇りと自信を取り戻すために「学び直す事柄」ではなかろうか。

戦後、我が国の歴史の事実を学ばず、自虐観に覆われた日本史を学んでしまい、他国からの一方的な追求や要求に、その場しのぎの謝罪を繰り返してきた。
「そうではないんだ。事実はこうだ。」
こんなことをはっきりと言える日本人を育てていくべきであろう。

周りに多くの学びの対象がある。

posted by 伊藤保徳 at 08:39| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月05日

記事の切り抜き

パソコンなど、電子機器の普及により「情報の管理」が大きく様変わりしている。

確かに便利である。
しかし、私は相変わらず「スクラップ派」である。
つまり、新聞や雑誌、書籍など「紙情報」を切り抜き、保管するという方法だ。

今まで何度やめようかと思ったが、これ以上の方法が見つからず相変わらず続けている。

毎日朝刊を読む。
朝刊は二紙購読しているが、家族も読む「中日新聞」は読み終え所定の場所に置く。
もう一紙の産経新聞は全く私用であり、読み始めて気になった記事はその場で切り抜いていく。
この、「気になった記事」というのがいい。

中日新聞は1日置いて同じ作業を行なっている。

そしえ切り抜いた記事は暫く置いておく。
私流で「間をおく」のである。

切り抜く時はその時の感情(つまり、気になった内容)で作業をするが、台紙貼りやノートへの貼りこみは「客観的になってから行なう作業」である。

面白い事に、この段階で切り抜いた記事が半分くらいになる。
時に、ブログで取り上げたりするのは「気になったレベル」の記事である。

台紙に張った記事は一応分類保管している。

さてこれもどんどん増えるばかりで、整理する必要がある。

こうしたを数ヶ月に一回行なうようにしている。
廃棄するものは「資源ゴミ」として出す。

結局は新聞記事でも数回目を通す場合がある。

人それぞれのやり方があろうが、この方法は、情報洪水の中から必要情報を取り出す訓練になっていると思うし、「現象ごとのつながりが見えてく」こともある。

デジタルではこういうことはできないのではなかろうか。
そう思うがゆえに未だに止められないでいる。


posted by 伊藤保徳 at 10:06| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

記事の切り抜き

パソコンなど、電子機器の普及により「情報の管理」が大きく様変わりしている。

確かに便利である。
しかし、私は相変わらず「スクラップ派」である。
つまり、新聞や雑誌、書籍など「紙情報」を切り抜き、保管するという方法だ。

今まで何度やめようかと思ったが、これ以上の方法が見つからず相変わらず続けている。

毎日朝刊を読む。
朝刊は二紙購読しているが、家族も読む「中日新聞」は読み終え所定の場所に置く。
もう一紙の産経新聞は全く私用であり、読み始めて気になった記事はその場で切り抜いていく。
この、「気になった記事」というのがいい。

中日新聞は1日置いて同じ作業を行なっている。

そしえ切り抜いた記事は暫く置いておく。
私流で「間をおく」のである。

切り抜く時はその時の感情(つまり、気になった内容)で作業をするが、台紙貼りやノートへの貼りこみは「客観的になってから行なう作業」である。

面白い事に、この段階で切り抜いた記事が半分くらいになる。
時に、ブログで取り上げたりするのは「気になったレベル」の記事である。

台紙に張った記事は一応分類保管している。

さてこれもどんどん増えるばかりで、整理する必要がある。

こうしたを数ヶ月に一回行なうようにしている。
廃棄するものは「資源ゴミ」として出す。

結局は新聞記事でも数回目を通す場合がある。

人それぞれのやり方があろうが、この方法は、情報洪水の中から必要情報を取り出す訓練になっていると思うし、「現象ごとのつながりが見えてく」こともある。

デジタルではこういうことはできないのではなかろうか。
そう思うがゆえに未だに止められないでいる。


posted by 伊藤保徳 at 09:53| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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