2012年11月30日

原発を考える

いよいよ選挙である。

3年前の「政権交代」から新しい政治の枠組みができたであろうか。
あれほどまでに待ち望んだ「政治改革」は、どこまで進んだのであろうか。

「いずれの問いにも前向きな評価は得られない」、というのが多くの国民が持っている気持ちではなかろうか。

そして今度の選挙である。

一番の話題は「第三極」といわれる「既成政党否定派」の動きである。
12月4日の公示までに、まだ集合分散があるかもしれない情勢だ。

そんな中で、「脱・原発」という掛け声が大きくなって来ている。

思うのは、《また劇場型の選挙になり、脱・原発の大合唱で投票行動が誘導されるのではないか》と心配している。
原子力発電は、わが国のエネルギー政策の根幹をなすものである。
核の平和利用という理念を高い技術力で実現しつつあるが、昨年の大震災で、自然の前には「実にもろい」ということも知った。
この事をもって即、「脱・原発」とか「卒・原発」というのはいかにも思慮が浅いように思う。

明日また自然災害が発生するかもしれない。
だから一日も早く「廃止」すべきである。
この主張が理解できないわけではないが、やめた時のリスクも考える必要がある。

心配するのは、「脱・原発」の議論がどんどん極論化していることだ。
それは、「原発は賛成か反対か」という議論になってしまうのである。

「郵政民営化」の時でも、究極「官による郵政事業は賛成か反対か」になってしまった。

大衆の声は「脱・原発」である。
でも、それに迎合した結論が果たして国家のためになるかどうか。
この点を十分議論し、方向性をしめすのが「政治」だと思う。

「従来までの原発政策の見直し」は当然であり、どんな方向にシフトするのか、それを政府が示さなければならない。

国家観のない「政策論争」は、国を危うくすると思う。

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2012年11月29日

人気の就活サイト

1週間ほど前の産経新聞に、「売り手市場型の就活サイト」の人気が高まっているという記事があった。

景気の低迷が続いており、就職活動も大変である。

従来は、採用する側が「募集要項」を発表し、それに対し希望する人(学生)が応募し、採用のための選考をしていた。
それに対し記事にあった「就活サイト」は、まずは就職希望の学生が「プロフィルを公開」、その情報を基に会員企業が個別にオファーし、採用交渉が開始されるというもの。

記事では「売り手市場型」と表現してあったが、「採用したい側と就職を希望する側」が同等の立場で交渉するというものである。
本来はこうあるべきだと思う。

今年4月に開設された『オファーボックス』は、平成26年3月、卒業・修了予定の学生が無料で登録が可能。その数は1200人を突破したという。
また、参加企業も約70社あるそうだ。
(因みに、採用決定時の成功報酬は一人30万円とのこと。)

現在の「新卒一括大量採用」という形態に、何らかの影響がでるかもしれない。

大企業の採用形態は現在のやり方が主流だろうが、この「一本釣り方式」の併用も考えられると思う。

利用できると思うのは、中小企業であろう。

中小企業では慢性的な人手不足である。
だが、単に作業者を採用するという対処法ではなく、人材を求め改革の牽引者を育成すべきである。

そう考えると、個人にオファーし、事業に対する熱い思いを伝えられ、それに意気を感じてくれる若者が見つかるかもしれない。
極めて可能性は高いといえよう。

注目していきたい仕組みの一つである。


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2012年11月28日

一念を考える

倫理法人会、今朝のモーニングセミナーは、私の担当だった。
毎月1回担当をしているが、10月は17日に担当しており、随分久しぶりという感覚だった。

その影響もあり、本題に入る前の「近況報告」では、先月末出かけた「しまね神話博」に関連しての話を、持ち時間の半分近くやってしまった。
この話の中では、専ら日本歴史のこと、特に日本の起源や神話の源など、普段あまり聞くことのない内容だったと思う。(反応がとてもよかったので、改めて「講話」としてまとめておこうと思っている。)

さて本題だが、「致知」11月号の特集を参考に、「一念」ということについて考えてみた。

まずいえることは・・・
・歴史上に名を残しているような日とは、全て「一念の人」である。
・「一念とは」、一つことをただひたすらに、懸命に努力することだが、日本人の美徳でもある。

こういうことを、「致知」11月号で学びながら、「企業経営」という場面で考えてみた。

何といっても創業者の「一念さ」は特筆すべきだろう。
二代目、三代目になると、創業者ほどの「一念さ」が消えてしまうのが常。
やはり、「創業の精神に忠実に、ひたむきな努力」こそが王道といえよう。

こんな話をし、記事の中から学んだことを紹介した。

その記事は、高野登氏(人とホスピタリティー研究所主宰)と齋藤泉氏(日本レストランエンタプライズアドバイザー)との対談記事で、「ビジネスの究極」という内容だった。

高野氏は「ホテル、リッツ・カールトンでサービスの原則を徹底した人物。片や齋藤氏は、山形新幹線のカリスマ車内販売員である。

当然のことながら、「サービスの究極」に関する内容だが、二人共通して言えるのは、「サービスの根本はホスピタリティーである」、ということ。
更には、それを「一念を持って貫くこと」が、お客様を喜ばすことであり、時に感動を呼ぶ対応になるということであった。

まさに、「ひたすらに、懸命に・・・」である。

こうした記事から何を学ぶか、人それぞれである。

流し読みではなく、真剣に、しかも懸命に読んでみる。
そこには、学ぶことが山ほどあることがわかるのものだ。

私が毎月1回、講話を担当するために「致知」をしっかり読むようになった。
お陰で、学ぶことが随分多くなったと思う。実感している。

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2012年11月27日

ブラック企業

新卒学生の就職戦線は相変わらず厳しいようだが、この「買い手主導」の状況をいいことに、悪質な採用を繰り返している企業があるようだ。
全く許しがたいことである。

このことを、中日新聞(11月21日)の社説で取り上げていた。

「ブラック企業」た題した社説は、「企業の離職率を開示させよ」、という結論だったが、まずはことの実態を公表することが重要だと思った。

現状について次のように説明している。
《慢性的な人手不足状態で深夜勤務は六日連続、休日も研修やリポート漬けにする飲食チェーン。
多めに採用して入社後に猛烈な競争をさせ、即戦力にならなければ使い捨てるIT企業・・・。
ほかにも「『はい』以外の返事は禁止」にしてパワハラする、過労死ギリギリの労働を強いる、残業代を支払わない・・・

こうした労働環境が著しく劣悪な企業は「ブラック」と呼ばれ、学生の間では定着している。
就職活動の学生にとって、ブラック企業にいかに入社しないかが大きな精神的な負担となっている。》(以下略)

何となく想像のつく状況もあるが、多くは「絶句をするような状況」だ。

更には・・・
《許せないのは業界の一、ニを争うリーディング企業の中にブラックが目立つことだ。
言い換えれば「若者の使い捨てや犠牲」の上に成り立っている好業績である。》という記述である。

そして、若者が就職しても早期離職率が高いのは、このブラック企業の存在が大きいとしている。

厚生労働省が10月末に発表した業種別「大卒者の三年以内離職率」によれば、宿泊・飲食サービス業や教育業の離職率は約五割に達しているという。

これは、日本型経営の特長の一つであった「長期雇用制」が崩壊してしまった結果であろう。

企業それぞれの事情があり、一律的に共生することは難しい。
しかし、可能性を持った若者達を「使い捨てや犠牲」にする企業は許すべきではない。

こういう時、法律違反は論外とするも、社会正義のためにマスコミがもっと積極的に取り組むべきだと思う。

体制批判もいいが、若者たちのために「ブラック企業の実態を世に知らせしめる」ことをするべきである。

社説を読み、「ブラック企業名」は特定できていると思うので、キチンと裏付けを取り、実名での報道をしたらいいのではなかろうか。

日本にある資源は、極論すれば「人材」しかない。
その貴重な人材を「使い捨て」するなど、もってのほかである。


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2012年11月26日

一人勝ち

昨日から東京ディズニーシーに来ている。
従兄弟の長男が結婚式をあげるということで、ディズニーシーにやって来た。

相変わらず大変な人出である。

ディズニーランドで無いもの。
それは、季節感、時間感覚、日常生活感だそうだ。

確かにそうだ。

おまけに、いつもの経済感覚も失われ、ついつい高いものにも手が出る。

やはり魔法の国である。

昨日の午後から先ほどまで滞在していたが、スッカリ魔法にかかってしまったようだ。

名古屋への新幹線の中、魔法もとけ思うのは、ディズニーランドの一人勝ち、ということである。

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2012年11月25日

花鳥風月の「月」

日本人の美意識、「花鳥風月」に関する最終回である。
最後は、「花鳥風月」の「月」の話である。

「月」は大宇宙の象徴しているということが、「大宇宙といえば太陽ではないか?」と思ってしまう。
しかし日本人の美意識としては「大宇宙は太陽ではなく、月」だそうだ。

一つの理由に暦がある。
《ついこの間まで、われわれは旧暦を使っていました。
旧暦というのは陰暦です。
月の運行でカレンダーを考えていたわけです。

太陽でカレンダーを考えるのは西洋の考え方です。
東洋では月の運行で考えます。

月は太陽に照らされて輝いているから消極的な存在だと、われわれは考えますが、そうではありません。むしり月こそ、本体です。(中略)

陰の文化は、大地です。母なる大地です。父なる大地ではありません。

母こそ、陰の世界であり、月の世界であり、そしてそれが実は人間の一番大事な根本である。
これが古代の考え方です。》(以下略)

言われてみれば、農作業や神事などは「旧暦」(陰暦)でいまだ行なわれている。
(蛇足ながら、中国での祝日は旧暦でおこなわれているようだ。)

また、神話の中にも「月」があるようで、それを「月読神」(ツキヨミノカミ)というが、太陽を表す「天照大神」(アマテラスオオミカミ)より大事な存在だという。
しかし実態がよくわからず、「空」(くう)の存在だそうだ。

日本人の美意識を表す言葉として「花鳥風月」を詳しく紹介してきたが、「月」が一番難解である。

意味が完全にわかっていたわけではないが、多くの日本人は「花鳥風月」を感覚的に認識していると思う。

この講演録を読みながら、今更ながら日本人の微妙な感性を再確認した。

講演の最後に話された「月の観賞と日本人」について抜粋して紹介する。
《自ら光を輝かすのではなくて、みんなの光を受けながら、照り輝くほうがいい。
これが月の文化です。

そしてその月も実は煌々と照り輝く月はあまりよくない。
見え隠れする月がいいのです。(中略)

完全無欠なものでなくて、いろいろな障害がある存在こそ良いものなのだ。
人間の存在というのは基本的には完全無欠ではなくて、障害がいろいろあって、妨げがあり、妨げがある中に存在することこそ本来の人間の姿だと、こういう言い方です。

これが中世になって生まれた日本らしさではないかと思います。》(以下略)

とても勉強になった「講演録」だった。

(この講演録は、ロータリーの友11月号に掲載された静岡文化芸術大学学長の熊倉功夫氏による「日本人の美意識」という講演の記録である。)

posted by 伊藤保徳 at 06:16| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月24日

花鳥風月の「風」

日本人の美意識という講演録を読み、こうしてブログに書き込んでいるが、これも一つの勉強法である。
これで、何かの機会に数度話せば長く記憶に残ることがある。

今回は、花鳥風月の「風」について、日本人のもっている「美的感覚」についてである。

講演録(静岡文化芸術大学学長、熊倉功夫氏『日本人の美意識』)から印象的なところを抜粋して紹介する。

「風」というのは、自然現象全般のことで、雨とか風について「独特な感じ方」について紹介している。

《風が吹くというだけで、その風の音とか風の流れを感じるところに、日本人の独特の感覚があると思います。

茶の湯では、「茶の湯とは 墨絵に描きし 松風の音」と詠んだ家元がいます。
松風の音なんて墨絵に描けるはずがない。
でも墨絵を見ると、そこには松風が吹いて、その松風の音が聞こえてくるような気がします。

その聞こえてくるような松風の音は何かというと、釜の煮え音です。

釜がシュンシュンと炉の中で湯が沸いている。
その音が松風の音。
ここに茶があります。

ですから、茶の湯のことを松風といったりするのです。

そんなふうな風の音、見えないかたち、見えないものの中に非常に大事なものを感じとるいう、このあたりが日本人の美意識の一つの大きなポイントになるのではないかと、私は感じます。》(以下略)

釜で湯が沸いている音を「シュンシュン」と表現されているが、これもとても日本的で、外国人にはない感じ方、表現法だと思う。

また、「雨」を絵に表現したのは日本人が初だといわれている。
有名なのは、「広重の版画」の中に線で雨が表現されている。
これも日本人独特のものだといえよう。

あるいは、「侘び」とか「さび」という世界というのも独特である。

こういう感性を持っているというのは、人は「自然の一部」という考え方や、全てのものに「命がある」「生きている」という思いを持っているからだと思う。

私は、こうした「感性」(感覚)は、21世紀の人間社会をリードするものだと思う。

世界に向け、積極的に発信したらいいと思うのだが・・・。

posted by 伊藤保徳 at 06:47| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月23日

花鳥風月の「鳥」

数日前に書いた「日本人の美意識」についての続きである。

今回は講演録(静岡文化芸術大学学長 熊倉功夫氏)から抜粋で紹介する。

花鳥風月の「鳥」
《「鳥」は何か。動物一般の代表です。
ニワトリとはわれわれの一番親しい鳥です。

日本人は昔、ニワトリを食べませんでした。
天武天皇の詔勅(しょうちょく)がありますが、食べてはいけないものの中の一つがニワトリです。
おそらく、江戸時代まで食べなかったようです。
卵も食べませんでした。

なぜ食べないのか。

簡単に言えば、ニワトリが「庭の鳥」、すなわち身内だからです。
身売りに対して非常に甘い。優しい。守る。
外に対しては非常に敵愾心を持つ。
これは日本人の独特の感覚です。

野にあれば、イノシシでもシカでも食べていいのですが、身内にあるものは、牛でも馬でも、犬でも猫でも食べない。
これが日本人の基本的な考え方です。
動物というのも、場合によっては神と人間の仲立ちではなかったか。
そういうような気がします。

ニワトリは何のために飼っていたか。
時を知らせてもらうためにニワトリがいたのです。
ニワトリの声というのは非常に大事でした。》(以下略)

花鳥風月の「鳥」が動物の総称でありその代表がニワトリとは全く知らなかった。
加えて、江戸時代の頃まで食べていなかったというのも意外である。

では、いつ頃から食べるようになったのか?
時を告げる役割がなくなった頃からだろうか、興味が湧く。
ニワトリは日本人が昔から食し、貴重な蛋白源だと思っていたが大きな間違いのようだ。

そういえば、伊勢の内宮で宇治橋を渡って神苑に入った左側のところにニワトリがいる。
確か、オナガドリだったと思うが放し飼いのようだ。

日本人の美意識を表す言葉としての「花鳥風月」。
「花」と「鳥」を紹介したが、追って「風」「月」も紹介する予定である。


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2012年11月22日

事業内容のPR

昨日、瀬戸労働基準協会主催の優良事業場見学会が開催され、参加者28名と豊橋市にある本多電子株式会社様に行ってきた。

昨日のブログで、「恒例事業への参加が減少気味であり、対策を検討する」ことを書いた。

午前8時の出発時から、「どうすべきか?」という問題意識をもっていたが、見学会が済み昼食の席で参加者の声を耳にしながら一つ行うべきことが見つかった。
「事業内容のPR」である。

昼食をとりながら、「見学した会社の事業や雰囲気の感想」を話されていたが、この内容をそのまま知らせることが出来たとするなら、きっと参加者が増えると確信した。

この事業所見学というのは、いわゆる「労働安全衛生管理活動」への取組みが積極的、先進的な事業場を監督署に紹介してもらい訪問している。
多くは、午前中が見学会、昼食後は参加者の懇親会という内容である。

昨日は、午前10時に本多電子様に訪問、1時間半にわたって説明や見学をさせてもらった。
そして昼食会場に。
午後からは浜松にある浜松航空エアパークに立ち寄り見学をした。

なんといっても中心は事業所見学であるが、参加者の感想が面白い。

狙いである「安全衛生活動」の状況もさることながら、「その会社の事業内容」には格別の興味があるようだ。
特に昨日の場合は、モノづくりの工程見学ではなく、「超音波でできること」や、「超音波利用の製品」の説明が中心であり、興味をそそったのかもしれない。

こうした見学の直接的な感想の他に、会社の雰囲気、社員の対応、部屋の作りや掲示物など、見学先のあらゆることが気付きや学びになっている。

このことこそがこの事業の良いところだと思っている。

しかしながら、その良いところが十分アピールできておらず、減少傾向の要因になっていると思われる。

そこで、参加者から「ひと言感想」を募り、協会の会報に載せることを企画することにした。
発行のタイミングから、来年1月号になると思うが、見学先のことをはじめ、参加者の「ひと言感想」などで紙面を構成するつもりだ。

来年からの「変化」を期待したい。


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2012年11月21日

恒例事業

今日は、瀬戸労働基準協会の恒例事業の一つ、「優良事業場の見学会」が行われる。
協会の会長を拝命して14年になるが、今年度をもって退任させていただく予定である。

いわゆる任意団体ではあるが、設立されて60年以上になる団体であり、先人たちのご苦労により、年間を通じて「恒例事業」が沢山ある。

私が会長を拝命したから増やした事業もあるが、今日行われる優良事業場の見学会は前任者から引き継いでおり、20年以上続けられている。

これは、愛知県下で、安全衛生管理活動への取組みが積極的かつ先進的な事業場を見学させていただき、自社の活動の参考にしようという狙いで開催している。
今回は、豊橋市にある「本多電子株式会社様」に訪問する。

見学先は、監督署から推薦してもらって決定しており、今まで見学した事業場はすばらしいところばかりだった。
しかし、残念ながら参加者が年々減少傾向にある。
「恒例事業」として、時期がくると淡々と企画し、案内をしているが、「マンネリ化」は避けられないものだ。
何か工夫をしないと、参加者はジリ貧である。

事業そのものは意義あることだ。
要は、企画や運営のプロセスに問題があるのであろう。

今日、午前8時に集合出発であり、一日細かく観察していこうと考えている。


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2012年11月20日

花鳥風月の「花」

少し前に、日本の食文化のことを書いた。
書いたというより、人様が話されたことを紹介したのだ。

今回はその続きである。
静岡文化芸術大学学長の熊倉功夫氏の「講演録」からの抜粋で、日本人の美意識について紹介する。

「日本人の美意識」
何となく分っているつもりだが、いざ説明しようとするとなかなか難しい。
勉強として、講演録とよく読み、気になった言葉や文章を書いてみる。

日本人の美意識を一言で表現すると「花鳥風月」であると氏は言う。
この言葉は知っているものの、その詳しい内容となると・・・。
そこで今回はまず「花」について。

花鳥風月で言うところの「花」は、植物全般全般を表しているという。
植物は、神と人間の仲立ちをする存在であり、その典型が「松」。

正月に「門松飾り」をするが、あれの松は神様が降りてこられる目印。
これはお寺さんで聞いたことがある。

植物全般を指して「花」というが、あえてその「花」は問おうと、それは「桜」だそうだ。

ただし、万葉集では桜より「梅」のほうがよく出てくるようで、本来日本の花というのは「梅」で、後になって「桜」になったという説もあるようだ。
氏は「日本の花は桜」という考えで、その理由をいろいろ述べられている。

まず言葉だが、「梅」というのは中国語の「メイ」という音そのままの外来語で、大和言葉ではない。

詳しくは以下のような説明である。
《日本語の「メ」という発声は口を閉じてから発音します。
そのところを「ウ」や「ム」で表して、「ウメ」と言うのです。つまり、梅は外来文化だということがわかります。》

「桜」については花見について触れ、単に飲み食いをするというのではなく、神様をお迎えし、もてなすのが「花見の宴」なのである。
それは、農業を守ってくれる神様だという。

また、仏壇やお墓にに花をお供えするが、いわゆる日本人の「祖先信仰」である。

「花」は神と人間の中立ちの役を担っている。
そしてその仲立ちは花だけではなく、植物全般を指している。

今まで気にも留めなかったこと。
当たり前のように行なっていたが、その起源を全く知らなかったこと。

などなど、とても勉強になった。


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2012年11月19日

日本語の素晴らしさ

昨日、第5回の「NIHONGOスピーチコンテスト」があった。
瀬戸市に住む外国人を対象にした、日本語によるスピーチコンテストである。
瀬戸市国際センターが主催だが、瀬戸北ロータリークラブの設立30周年の記念事業とした経緯もあり、クラブも共催している。

そういう関係もあり、第1回から毎回参加している。

今年は10人の外国人(中国4人、ベトナム2人、ミャンマー1人、インドネシア1人、チェコ1人、ウクライナ1人)のスピーチを聞いた。

「日本語の流暢さ」は、日本での生活時間とはあまり関係ないようだ。
やはり、「日本語の勉強」の質と量による。

中国からの留学生の日本語は素晴らしい。

そんな中で、「日本語の素晴らしさ」というテーマでスピーチをした中国人(女性の留学生)がいた。

彼女のスピーチから、改めて「日本語」について学ばせてもらった。

彼女は、「日本語の素晴らしさは二つある」とし、日常生活での日本語会話の事例を紹介しながら語ってくれた。
一つは、「同じ言葉を二回繰り返し、より深い情感を伝えている」、というもので、事例として「ニヤニヤ」という言葉を紹介した。
いわゆる「ニヤニヤ」とは、微笑とかにこやかとも違う、何か自分の世界に入り込み一人悦に入っている状況が思い浮かぶ。
なるほど、彼女の言う「深い情感」の伝わる言葉である。

我々日本人は、これを「表現方法」を考えているが彼女にとっては「言葉」なのだ。

もう一つは、「外国語を日本語にうまく取り入れてる」ということだ。
言われてみれば、英語をはじめ、幾つかの外国の言葉が「日本語」になっている。

こういう「言語文化」は日本以外には見当たらないという。

我々はほとんど意識せず使っているが、指摘をされてはじめて気付くことが多い。

このスピーチを聞きながら、こんな言葉を思い出した。
日本人は国際化とか、グローバル化というとすぐに諸外国のことを知ろうとする。
しかし、本当はそういうことではなく、まずは「己を知る」ことだ。
「己を知る」とは、「日本のことを語ることが出来る」ことだ。

日本語の特徴を彼女のスピーチのように語ることが出来るだろうか。

一事が万事である。

国際交流の一環として始められたスピーチコンテストであるが、「日本語の流暢さ」を競うこととは別に、「日本の特徴を知る機会」にするという気持ちが大切だと思う。


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2012年11月18日

歴史学にふれる

「歴史を学ぶ」とか、「歴史に学ぶ」という言葉をよく使っているが、その内容については余り具体的ではなかったように思う。
感覚的に「今の課題は過去の事象の中に必ずある」とか、「歴史は繰り返される」という程度のことで、論理的ではなかった。

そうした思いに「一喝」されたような講演会があった。

一昨日、社団法人瀬戸旭法人会の設立60周年記念事式典での講演会である。
演題は『歴史に学ぶ、未来を読む』で、講師は歴史・作家の加来耕三氏であった。
(日本)歴史好きならおなじみの人である。

「歴史小説の作家」ではないところがポイントである。

私は著書を数冊読んだくらいで、講演を聞くのは初めてだった。

冒頭話された二つの言葉が印象的だった。
「歴史に学ぶとは・・・現在の経営や生活に生かさなければ意味がない。」
「歴史に学ぶとは・・・ちょっと立ち止まって考えること。」

聞いたときは、「当たり前のこと・・・」と感じたが、話が進むにつれ「生かしていない」「考えていない」と反省ばかりであった。
つまり、「歴史に学ぶ」は掛け声ばかりで、歴史の中にロマンを感じていただけであったようだ。

こういう考え方で歴史を研究するのが「歴史学」というそうだ。

「歴史」が益々好きになった。

講演の中で心に残った「言葉」の一つである。
『一般的に知られている「史実」というものの多くは「作り話」であることが多い。』

我々は、我が国の多くの歴史上の人物を「小説やドラマ」を通じて理解し、それをあたかも真実のごとく認識している。

それではその歴史上の人物に「肖ること」も「目指すこと」も出来ない。
ちょっと立ち止まり、「なぜ?」と疑問を発すべきである。

昨日まで、放蕩を繰り返していた人物が、ある日突然立派な武将になる(信長)。
そんなことがあるのだろうか?
他に何か見落としていることはないだろうか?
そのときの環境は?

などなど。

立ち止まって考えるとはこういうことだそうだ。

とても勉強になった講演会であった。
それに加え、明治維新以降の日本を、もっともっと勉強すべきであると感じた。


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2012年11月17日

インターンシップ

先日新聞に「インターンシップで縁結び」という記事があった。
(中日新聞11月9日号)

「中小企業にもメリット」の文字や、「大学生の企業志向」のグラフがあり、興味深く読んだ。

インターンシップは我社でも随分前から行なわれている。
しかし、「形式」は同じようでも、その意味や効用は大きく変わってきているように思う。
学生の側も、受け入れる企業側もだ。

そういう状況下で、もう一度「インターンシップ」の意義を考えてみる必要がありそうだ。

従来は、大学側の「お願い」と、企業側の「優秀学生を採用したい」という双方の利害一致の上で行なわれていた。
インターンシップに参加する学生と「企業に就職希望する学生」は必ずしも同一ではなかった。

今でもこうした名残はあるが、「インターンシップ」をその企業への「就職アプローチ」というような動きが出てきているようだ。
そのことを新聞では取り上げていた。
つまり、「インターンシップで縁結び」である。

大学生の企業志向も、「やりがいのある仕事なら企業規模のの大小は問わない」とする学生が、「大手企業がよい」とするを上回っている。
2011年卒からの傾向である。

こうした学生の動きに対し、企業も呼応すべきだろう。
「インターンシップ」を優秀学生の獲得手段にすべきではなかろうか。

すぐ頭に浮かぶのは「専門性」だが、ある分野についての専門性を学生に求めるのは酷である。
不可能に近いではないか。

私はむしろ「学生(若い人)のいう『やりがい』」に焦点を当てるべきだと思っている。

『やりがい』というものは実に主観的である。
十人十色である。
それは、「ある仕事」にやりがいがあるのではなく、全ての仕事の中に「やりがい」はあるのである。

「やりがい」は求めるものではなく、見つけ出すものだと思う。

こう考えると、「インターンシップ」を活用し、仕事の中に「やりがい」を見つけてもらうことはできそうだ。
ポイントは、「期間」と「指導者」であろう。

これからの時代、こうした採用方法も必要ではないかと思う。


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2012年11月16日

中庸の大切さ

いよいよ衆議院が解散である。
政権交代から三年、民主党の意気込みと国民の期待は大きかったが、残念な結果になった。

首相の口から「民主は中道」だとか、「いや、中庸だ」というような発言があったが、その言葉の意味が「信念なき中間」というように感じた人は私一人ではないと思う。

やはり政党として「何をするのか? 何のためにするのか?」という明確な綱領が必要であろう。
むしろ、「中庸」はそうした、目指すものがハッキリしていることが大前提だと思う。
(因みに「中庸」とは、《かたよらず常にかわらないこと》(広辞苑)という説明である。)

さて、こんなことを考えていたところ、小説の中で「中庸の大切」を説いたところを見つけた。
産経新聞に掲載されている「紅と白」という小説(関 厚夫作)である。

これは、「高杉晋作伝」の副題があるように、高杉晋作を取り上げた小説だが、第44回(11月15日号)では、師である吉田松陰が江戸の伝馬町牢屋敷で死罪に処せられた報を、萩で受け取った時の晋作の心模様が描かれていた。

その中で、日本民族の祖といわれる柳田国男氏の「武士道」が取り上げられている。

柳田国男氏はかって、《儒教による装飾を施される以前の武士道は、4つの要素によって構成されていると説いたことがある。すなわちー

第一には清浄(清らかでけがれのないこと)を愛する風である、第二には執着の強いことである。、第三には復讐を好む風である、第四には任侠の気質である。

晋作には「かたき討ち」(復讐)の年を含め、そんな原日本人的な武士道気質を濃厚にもちあわせていた。》(中略)

ここで柳田氏は、「この4つの要素が中庸にとどまれば武士道であり、極端にすぎれば「天狗道」におちいる」、と警告している。
(「天狗道」というのは、堕落した者が落ちるという魔界のこと。)

そして、晋作は「天狗道」に陥りそうになりながらも、危ういところで踏みとどまったというが、それは、「松下村塾でつちかった学問のおかげ」だと、ひそかに自負していたいう。

大義をもち、その上で「かたよらない心」というのは大切である。

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2012年11月15日

歴史を学ぶ

以前から「歴史を学ぶことの重要性」を述べているが、一般的に言われていることが、少し学ぶと「あれ?」と思えることが少なくない。

特に近代史といわれる明治維新以降に多い。

明治維新までは長い鎖国政策もあり、歴史は「国内」と「外国」がそれぞれ別個であった。
しかし明治以降、外国との交流も多くなり、一つの事象に対し「宗教や文化」、いわゆる価値観の違いでその記述が大きく異なることがある。

いわば、外国との交流が始まった時代からの歴史は、「いろいろな見方」のあることを承知しておかねばならない。
特に「戦争」に関することは、勝った国、負けた国でそれぞれ言い分が随分違うものだ。

その中でも「第二次世界大戦(大東亜戦争)」の記述はいろいろである。

日本文化や精神伝統を語る時、先の大戦での敗戦やその後の占領政策は避けて通ることの出来ない事項である。さらには戦争責任を問うた「東京裁判」もだ。

この東京裁判は、限られた分野では話題になっていたというが、余り馴染みがない。

判決を考えた11人の判事のこと。
その中の一人、パール判事は「侵略戦争にあらず、戦犯といわれている人全員無罪だ」、などという見解を示したという。

このパール判事のことをもっと知りたくなった。

強く思うと関連情報が集まるというがその通りだ。
このパール判事のことを「講談」で学べるという。

早速連絡を取り、来月4日尾張旭市で一龍斎貞花師匠による講談会を開催することになった。
演題は『東京裁判とパール判事』である。

これも「歴史を学ぶ」ことの一つである。
今から楽しみである。



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2012年11月14日

小学の一節

人間学を学ぶ月刊誌『致知』の11月号を読み直している。
今月28日に予定されている、モーニングセミナー講話の内容を検討している。
講話では、「致知」にある記事をベースに、経験と倫理を織り交ぜて原稿を作るようにしているからだ。

読み返しながら、何といっても「巻頭の言葉」が印象的だ。

11月号は伊與田氏の担当で、中国古典『小学』、『論語』からの一節を紹介しながらの内容である。

まずは論語から・・・
『性、相近きなり 習、相遠きなり』
もともと人間一人ひとりに大きな違いがあるわけではないが、躾や教育によって身についた習慣により、人間的に大きな差がついてくる、という意味である。

そして、「躾や教育」について、『小学』の一節を紹介している。
「古の小学、人を教うるに、洒掃(さいそう)、応対、進退の節、親を愛し、長を敬し、師を隆び、友に親しむの道を以ってす。
皆身を修め、家をととのえ、国を治め、天下を平らかにするの本を為す所以なり」

表現は難しく聞こえるが、内容はごく当たり前のことである。

特に最初の書かれている三つの言葉が重要だという。
「洒掃」(さいそう)とは掃除のこと。
「応対」は挨拶のこと。
「進退」は立ったり座ったりの作法のこと。

これらを「習慣化」することが説かれている。

その昔の日本人は、これらのことがきちんとでき、「東洋の君子国」といわれたこともあったようだ。

しかし、今はその面影もない。

そこで筆者は、もう一度「日本精神の縦糸」を繋ぎ直し、次代を背負う子ども達にキチンとした躾や教育を行なうべきだ、という主張である。

全くその通りだと思う。

人としての根源、国の起源などなど、縦の伝統といわれることを日常生活の中に取り込むべきだと思う。

まずは自らが決断し、身近なこと(清掃・あいさつ・立ち振る舞い)から実践すべきだと思う。


posted by 伊藤保徳 at 17:56| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月13日

日本人気質の変革

大相撲九州場所が始まった。
大相撲ファンの一人として、大相撲そのものの隆盛を願うところである。

今場所は、新横綱日馬富士の誕生で久しぶりに東西横綱が揃った。
昨日は負けてしまったが、気持ちを切り替えがんばって欲しいものだ。

先輩横綱の白鵬は、結び前の一番で、栃皇山に勝った後土俵下で力水をつけたり、結びの一番を見守っていたが、一人横綱の時代には無かった光景であった。

さて、大相撲は「国技」として、日本文化を継承していると思うが、最近は「外国人力士」に圧倒され、上位陣に日本人力士が少なく、残念に思う。
ただ、文化継承という点からいけば、外国人も日本人も同じで、よく理解され実行されているように思う。

外国人力士の「日本語の流暢さ」は驚きである。

外国人力士の活躍は素晴らしいものの、やはり「日本人力士」に期待はかかる。

11月10日の産経新聞に、舞の海秀平氏の「相撲《俵》論」という記事があった。
(連載なのかもしれない)
「日本人気質の変革が解決策」と題し、日本人力士の気概に触れていた。

《(前略)例えば、場所前の稽古を見ていても、日馬富士は日本人大関の稀勢の里や琴奨菊をコテンパンにやっつける。
このとき、2大関からは怒って向っていく感情が伝わってこない。
2人の大関に共通するのは、やられたらやり返すという気持ちの強さの欠如だ。

私の現役時代、曙が史上初めて外国人横綱になった。
ただ、あの時の日本人力士の心には、「曙を絶対に横綱にさせてたまるか」という意地があった。》

こう述べて、《力士も日本人も怒ることを忘れてしまったのだろうか》・・・と。

そして、これは単に大相撲の世界だけの話ではなく、「日本そのものの問題」で、日本人気質の変革が必要だと結んでいた。
全く同感である。

以前から述べている「日本人としての誇りを取り戻す」ことが肝要だろう。


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2012年11月12日

何が正しいのか

毎日情報洪水の中に身を置いているが、「一体何が正しいのか?」考えたことがあるだろうか。
一般的には、新聞テレビなどから伝えられる「情報」が主流だと思われている。

よく使われる言葉に、「テレビで言っていた」とか、「新聞に載っていた」があるが、この言葉だけであたかも真実のような受け止め方をしてしまうもののである。

「だって、テレビや新聞がウソをつくはずがない」、という真理がある。

しかし、本当にそうだろうか。

最近読んだ『メディア症候群』(西村幸祐著、総和社、平成22年9月20日第1刷発行)とか『「世論」の逆がおおむね正しい』(西部 邁著、産経新聞出版、平成24年10月13日第1刷発行)などという本によれば、マスコミ報道は疑ってかかった方が良さそうだと思ってしまう。

でもそれは、「何が正しいのか」を知ることにはならない。

ましてや個人の力で「何が正しいのか」を知ろうとするのは至難な業だと思う。

従って、一つの考え方を無条件に迎合するのではなく、せめて、「反対の考え方」を知る努力をすべきだろう。

その一つの事例として産経新聞(11月11日号)の『論人』の内容を紹介する。
論説委員の皿木喜久氏が、《「反軍」は中国を利するだけ》と題し、「オスプレイ」に関するマスコミの取り上げ方の偏りを指摘している。

安全性の問題、沖縄米軍兵の事件。
それぞれは大変問題であるし、キチンとした対応をしなければならないのは当然なことである。

しかしながら、「オスプレイの配備」の意味や、尖閣諸島が中国の脅威にさらされている現実との関連など、ほとんどの報道はそこには触れていないという指摘だ。

つまり「オスプレイ反対」「沖縄から米軍は出て行け」という大合唱である。
これをもって、報道の偏りだといっているのだ。
私もそう思う。
マスコミは、もう少し冷静にことの事態を報じるべきだ。

ではどうすればいいのか。

その回答は持ちえていないが、少なくとも「賛否両論」を理解する努力はすべきだろう。

posted by 伊藤保徳 at 08:30| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月11日

手書きツィッター

今年も店に手帳の並ぶ季節になった。
スマホなどの普及により、スケジュールとかメモの「アナログ派」は少なくなったようだが私は相変わらず手帳を愛用している。

愛用しているのは、いわゆる能率手帳というものだが、使い始めて32年になる。

私のような人もいるようで、雑誌(「清流」10月号)でおもしろい記事を見つけた。

作家の津村記久子氏の文である。
「手書きによる心の保存法」と題し、ノートや手帳の効用について述べている。

印象的な言葉は「手書きツィッター」である。
つまり、気がついたこと、思ったことなど、なんでもその時に書き込んでおく・・・というもの。

氏は次のように述べている。
《今年の三月から手書きツィッターなるものを始めてみました。
誰にも見せないことが前提です。

あまりにも心配なことが多かったり、際限のない不安に苛まれていた時期があって、人にうまく説明できることもできなかったものですから、仕方なく、しんどくなったら一日に何度でも書きなさい、ということでノートに自分の感情の推移を書き留めました。》(以下略)

こうして自分の感情を可視化することにより、自身の心が解ってきて、「そんなことはどうでもいいこと・・・」と思えるようになったという。
これを、『心の把握』というそうだ。

共感できる内容である。

ツィッターやブログ、あるいはフェイスブックなど、自身を公開することが流行っているが、人生は「公開する部分」「公開しない部分」これをあわせて「自分自身だ」、と氏は言う。
その通りだと思う。

そして、この文のまとめとして・・・
《「公開するための人生の部分」以上に、「公開しない人生の部分」に手をかけ、大切に持っていることが、自分自身の不安や虚しさに飲み込まれないためには必要ではないでしょうか。》

私もそう思っている。


posted by 伊藤保徳 at 08:18| Comment(0) | 言葉・文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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